日本の近現代史に興味あり、旧刊ですが、まとめています。
内容が濃いのでまとめに時間がかかります。
本日は「第1章」まで。
第1章 構想までの道程―アジア・太平洋戦争開戦まで
1 満州事変後―鉄鉱石、石油を求めて
■経済自給圏構想の出発
1931(昭和6)年9月 柳条湖事件
関東軍による満州事変へとつながる事件
満州事変が経済自給圏構想の出発点となった
1931年(昭和6)年
石原莞爾による「満蒙問題私見」
日本の糧食問題、鉄、石油資源の確保
不況打破、を提案
関東軍の高級参謀・板垣征四郎も同意見、満州を領土にを主張
1932年9月、満州国を日本が正式承認
1934年3月、「日満経済統制方策要綱」を閣議決定
1935年4月、満州国建設国債を引き受けた銀行団による視察団
『満州国視察報告書』、満州の資源が少ない→北支へのブロック圏の拡大を提案
日満支(日本・満州・中国)の経済ブロック結成を提案
陸軍による華北分離工作
■世界恐慌後の重工業化
1930年代、昭和恐慌
1931年12月、蔵相・高橋是清、金本位制から離脱
1933年、日本製鉄を設立
政府、輸入鉄鉱石の備蓄を奨励
日本の繊維産業から重工業への転換
■東南アジア資源への進出
英領マラヤ(現マレーシア)から鉄鉱石を輸入
1930年、中国からの輸入を抜く
鉄鉱石の東南アジア各地区からの鉱山開発、輸入が増加
石油の採掘、輸入は難航
■ボーキサイト輸入
1930年代後半までの日本の東南アジア進出は、欧米の植民地宗主国が容認した範囲内
ビンタン島でのボーキサイト開発、古川電工の上島清蔵
1939年、日本軽金属設立
アルミニウム
アメリカ、カナダ、ドイツに続く世界4位の生産国に
経済ブロック形成が日満支に、東南アジアを加える必要性高まる
2 日満支ブロックの可能性と限界
■対外経済政策と日中戦争
1937年から、外務省が東南アジアも含めた経済ブロックの構築を考案開始
ブロック経済と自由通商主義の二本立て
1937年、日中戦争勃発
欧米からの軍需物質の大量の輸入(北米からの輸入が50%)
アメリカの中立法に考慮、戦争とせず、事変、とする
■企画院、興亜院の設置、日満支経済ブロックへ
日中戦争で占領地が拡大
鉄鉱石、石炭などの自給に可能性
経済界の一部から、英米などの第三国から輸入より、経済自給圏の構築を求める声
■「東亜新秩序」声明後の対英米関係
1938年11月、近衛文麿首相、東亜新秩序声明
1922年、ワシントンで結ばれた9か国条約に違反と英米が反発
英米が中国支援を実施
1939年、天津英国租界で親日派要人が暗殺、北支那方面軍が封鎖
日米通商航海条約の破棄をアメリカが通告(アメリカが対日禁輸も可能に)
3 南方進出―欧米開戦と大東亜共栄圏の登場
■第二次世界大戦の勃発
1939年、欧州で第二次世界大戦が勃発
日本の貿易に影響
イギリス、ポンドのドルとの交換を停止
イギリスへの輸出で得たポンドで、アメリカからの輸入のドル支払い、という日本の決済構造が成り立たなくなる
1940年、ドイツがオランダを占領(イギリスの亡命政府)、フランスに親独政権を樹立
蘭印、仏印への進出する好機と捉える
松岡洋祐外相による蘭印、仏印への進出
■大東亜共栄圏の声明
第二次近衛文麿内閣、ヨーロッパへの戦争不介入政策を転換
東南アジアへの進出を強める
1940年、「大東亜新秩序」閣議決定
8月1日、松岡洋祐外相による「大東亜共栄圏」構想
p33
松岡が8月1日に「大東亜共栄圏」という言葉を用いたのは、翌日に予定されていたドイツのオット駐日大使との交渉で、
この圏域を日本の勢力圏として認めさせるためだった。
松岡のねらいは、ヨーロッパでの戦争終結後に行われるであろう講和会議の開催前に、蘭印と仏印を日本の勢力圏に含めることをドイツに認めさせることにあった。
つまり、このときに用いられた大東亜共栄圏は、ドイツの勢力圏から東南アジアを除外させるために発案された実体のない外交スローガンだった(『帝国日本の拡張と崩壊』)
1940年9月27日、日独伊三国同盟締結
英米からみれば世界再分割の協定
日本の「外交転換」
欧州戦争不介入、第三国貿易から、
日独伊との同盟、経済ブロック建設推進
アメリカが対日輸出規制を強める
■南方への経済政策―短期的、長期的の二段構え
(1)輸入
(2)日本企業の進出
拓務省の設立
■蘭印・仏印との経済交渉
1940年、小林一三商工相を代表とした第二次日蘭甲会商
蘭印バタビアで開催
日独伊三国同盟後、日蘭関係が悪化
仏印とは強硬策、戦略物資は少なかった
日本のコメ不足で70万トンの輸入を調印
■新代表による蘭印との経済交渉
芳沢謙吉による交渉
■蘭印との交渉「不調」、南部仏印進出へ
経済交渉による東南アジアの戦略的物資供給の中心地である蘭印の日本の経済ブロックへの組み込みは失敗
武力行使に方針転換
アメリカの反発
在米資産の凍結、石油の対日禁輸
高橋是清 1854‐1936(安政1‐昭和11)
たかはしこれきよ
近代日本の財政家,政治家。幕府の絵師川村庄右衛門の庶子として江戸に生まれた。幼名和喜次。仙台藩足軽高橋是忠の養子となる。1867年(慶応3)藩の留学生として渡米し苦学。翌年帰国し森有礼の書生となり,大学南校に入学。文部省を経て農商務省に入り特許局長まで進む。90年ペルーの銀山開発に失敗。92年日本銀行に入り,95年横浜正金銀行支配人に転じ,99年日銀副総裁に就任。日露戦争外債募集に成功し,1905年貴族院議員に勅選され,07年には男爵を受けた。11年日銀総裁に昇任した。
1913年第1次山本権兵衛内閣の蔵相となり,同時に政友会に入党。18年原敬内閣の蔵相に就任,政友会の積極政策を財政面で推進した。20年子爵。21年11月原敬暗殺のあとを受け,政友会総裁と首相の座を継承。ワシントン体制と国内の戦後不況・階級闘争の激化に対応する協調的新政策路線を模索したが,政治力が欠けていたこともあり党内対立を招き,内閣改造に失敗し,22年6月辞職。24年1月清浦奎吾内閣成立に対し第2次護憲運動がおこると,爵位を返上し,貴族院議員を辞任して運動に加わることを表明,原敬の選挙区盛岡市より当選した。政友本党の分裂で政友会は第3党に落ち,高橋は加藤高明の要請で護憲三派内閣の農商務相に就任したが,25年5月,政友会総裁を田中義一に譲り閣外に去った。27年金融恐慌に際し,田中義一新首相の懇請で蔵相となり,モラトリアムその他の処置で危機を脱すると在職42日で辞任,その無欲と政財界における信用度を示す。
満州事変勃発後政友会犬養毅内閣が成立するとまたも蔵相として入閣,大恐慌によって破綻した民政党の金解禁・緊縮財政・非募債政策を一新して,金輸出再禁止,軍備拡張と農村救済を柱とする積極財政による景気刺激政策を推進した。五・一五事件後の斎藤実内閣にも蔵相として留任,積極財政の具体化のため日本銀行券の発行限度を1.2億円から一挙に10億円に拡大し,赤字公債日銀引受けの道を開いた。この一連の政策により,貿易は伸張し景気はいちじるしく回復した。しかし軍部の軍拡要求はとどまるところを知らず,34年11月政友会の反対を押し切って岡田啓介内閣の蔵相に就任した高橋は,36年度予算編成にあたり悪性インフレを警戒して軍事費抑制の姿勢を示した。このため青年将校の恨みを買い,二・二六事件で襲撃を受け射殺された。無欲な人柄で〈だるま〉の愛称のもとに大衆的人気をもった彼の不慮の死は世人の同情を集めた。 松尾 尊鵜
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ボーキサイト
bauxite
アルミニウムとアルミナの主要な原料鉱石。名前は最初の産地フランスのアルル地方のレ・ボーLes Baux にちなむ。化学組成は一般的にAl2O340~60%,Fe2O31~25%,SiO21~10%,TiO21~10%,H2O12~30%である。Al は主として水酸化アルミニウム鉱物(ギブサイト Al2O3・3H2O,ベーマイト Al2O3・H2O),Fe は大部分針鉄鉱,SiO2の多くはカオリンなどの粘土鉱物として存在する。モース硬度1~3,比重2.5前後。ボーキサイトは,熱帯の風化作用で岩石中のアルカリ・アルカリ土類元素の溶脱やケイ酸塩鉱物の分解が行われて,鉄とアルミニウムの水酸化物が残留してできると考えられている。ボーキサイトは最近新しい鉱床が多く発見されて埋蔵量は相当増えた。1965年の世界の埋蔵量は約58億tと推定されていたが,93年には約232億tと推定された。生産量は96年に世界11400万t,うちオーストラリア4300万t,ギニア1400万t,ジャマイカ1200万tである。日本にはボーキサイトは産出しない。
嶋崎 吉彦
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日中戦争
にっちゅうせんそう
1937年(昭和12)から45年までおもに中国大陸で戦われた日本と中国との全面戦争で,太平洋戦争が起こるとその一環となった。その結果,明治以来の日本の植民地帝国が崩壊したばかりでなく,東アジアの情勢も大きな変革をとげた。
[前史] 日本は1931年以来武力によって中国を大規模に侵食し,そこを足場に中国の独占をめざす政策を推し進めた。まず満州事変を起こして〈満州国〉をつくり東北4省を日本の支配下におき,ついで35年には長城線の南の華北5省を第2の〈満州国〉にしようと華北工作を開始した。おりからヨーロッパではナチス・ドイツとファシズム・イタリアとが対外侵略を始めたが36年末には日独防共協定が結ばれ,ファシズム諸国の提携がすすんだ。華北とくに内蒙古は対ソ戦のための重要地点でもあった。待介石を中心とした中国国民政府は,まず共産軍を掃討したあと日本に当たるという〈安内攘外〉策をとり,日本の侵略に対して妥協的だったが,中国共産党は抗日統一戦線を提唱し,民衆の間にも内戦停止・一致抗日を求める運動が広がった。これに対して日本は日中提携・満州国承認・共同防共の広田三原則を中国に押しつけようとしたが,中国では国民政府による国内統一の進展と抗日救国運動の高揚を背景に36年末,西安事件を機として内戦停止が実現した。日本でも中国政策の再検討が叫ばれ,林銑十郎内閣の佐藤尚武外相は国民政府による中国統一を認める方向で国交改善を図り,陸軍でも参謀本部の石原莞爾(かんじ)作戦部長らは生産力拡充のため戦争を避け日中経済提携をすすめようとした。だが他方で中国統一の進展に危機感をつのらせ強硬外交を主張する動きも関東軍を中心に有力だった。
[戦争の勃発] 1937年7月7日夜に蘆溝橋事件が起こると,局地的解決を図ろうとする不拡大派とこの機に一撃を与えて中国を屈伏させようとする拡大派とが対立したが,近衛文麿内閣は華北派兵を声明して後者の道を選んだ。7月末には日本軍は華北で総攻撃を開始した。8月に戦火が上海に飛ぶと近衛内閣は中国に対する全面戦争に踏み切り,〈北支事変〉を〈支那事変〉と改称した。南京爆撃や中国沿岸の封鎖も開始された。しかし宣戦布告はなされなかった。アメリカからの武器・軍需品の輸入に支障が生ずるのを恐れたのである。8月末には北支那方面軍(司令官寺内寿一)が編成され,おもに鉄道沿いに南下したが,山西省への進撃では,平型関などで民衆を動員した中国軍に苦杯をなめさせられた。上海では中国軍がクリークを利用した堅固な陣地によって頑強に抗戦し,日本軍は甚大な損害を出し,11月に柳川平助兵団が杭州湾に上陸してようやく中国軍を後退させた。日本軍はこれを急追撃して12月13日に省都南京を占領したが,南京大虐殺事件を引き起こして世界の非難を浴びた。
この間に中国の提訴で,国際連盟総会は日本の中国都市爆撃非難の決議と,日本の行動が中国に関する九ヵ国条約と不戦条約への違反だとする決議とを採択した。11月にはブリュッセルで九ヵ国条約国会議が開かれたが,実効ある対策はとられず,中国を失望させた。ソ連だけがいちはやく中ソ不可侵条約を結んで中国を援助した。トラウトマン中国駐在ドイツ大使の仲介で和平交渉も始まったが,南京が陥落すると日本の要求はふくれあがった。中国の回答が遅れると近衛内閣は交渉を打ち切り,〈爾後国民政府を対手とせず〉と声明した。占領地には日本軍の指導で蒙疆連合委員会(1937年11月22日蒙古連盟,察南,晋北の自治政府が連合して成立),華北の中華民国臨時政府(1937年12月14日王克敏を行政委員長として成立),華中に中華民国維新政府(1938年3月28日梁鴻志(りようこうし)を行政院長として南京に成立)がつくられたが,旧軍閥時代の政治家を中心とする傀儡政権にすぎなかった。中国はまもなく活発な抗戦に出て,1938年4月には山東省南部の台児荘で日本軍を後退させて大勝利を宣伝した。日本軍は南北から徐州作戦を開始し,5月には徐州を占領したが,兵力の不足から対ソ作戦用師団の転用を余儀なくされ,中国軍の包囲には失敗した。
[戦争の長期化] 日中戦争が起こるとすぐ政府は各界に〈挙国一致〉の協力を求め,国民精神総動員運動(1937年9月9日内閣訓令)を発足させた。1937年9月の第72臨時議会では臨時軍事費特別会計が設置され,年間予算とほぼ同額の戦費が計上され,軍需工業動員法が発動され,輸出入品等臨時措置法等が制定された。すでに国際収支が悪化し重要物資の輸入が制限されたため〈物の予算〉が必要となり,38年1月には物資動員計画が発足した。同年の第73通常議会では国家総動員法が成立し,政府は議会の同意なしに広範な経済統制を行う権限を握った。だがまもなく軍需拡大や輸出減退のため日本は経済危機に直面した。5,6月には近衛内閣は大改造を行い,新任の宇垣一成外相,池田成彬蔵・商相(兼任),板垣征四郎陸相を加えた5相会議を発足させ,日中戦争の年内解決をめざした。経済統制が強化され,輸入物資はすべて軍需と輸出用に振り向けられ,民需向け綿製品は姿を消し,鉄材の使用制限から2年後のオリンピックと万国博も中止された。宇垣外相は国民政府行政院長孔祥熙(こうしようき)との和平工作を開始したが失敗に終わり,興亜院(対華中央機関)の新設に反対して9月末辞職した。大規模な漢口作戦も実施され,10月には日本軍は武漢三鎮を占領し,ミュンヘン会談などでイギリス,フランスが苦境に立ったのに乗じて広東も占領した。中国は主要開港地を奪われて苦境に立ったが首都を重慶に移して抗戦を続けた。
日本軍の進攻作戦は限界に達し,日本は80万の大軍を釘付けにされたまま長期戦の泥沼に引き込まれた。日本軍は点と線,つまり都市と鉄道とを握っただけで,その後方では中国共産党の指導で解放区が拡大し,戦況は年を追って不利となった。11月には近衛内閣はこの戦争の目的は東亜新秩序建設にあるとして中国にも協力を求める声明を出し,12月に日本軍の防共駐屯等の国交調整方針を示したいわゆる近衛声明を発表した。国民党副総理汪兆銘はこれに呼応して重慶を脱出し対日和平を提唱した。しかしこれに呼応する軍閥もなく,国民政府を切り崩せなかった汪一派に対する日本の態度は冷たかった。日本は占領地の経済的独占を図り,三井,三菱,住友等の大財閥にも出資させて北支那開発,中支那振興の二大国策会社を11月に設立し,交通・鉱山等重要事業を握った。イギリス,アメリカが日本の行動は門戸開放・機会均等を約した九ヵ国条約違反だと抗議し,揚子江の開放を要求したが,有田八郎外相は,事変前の観念や原則は現在の事態には適用できないと突き放した。
39年に入るとドイツがチェコスロバキアを解体し,大戦の危機が迫った。日本では日独伊三国同盟をめぐる支配層内部の対立が続いた。日本軍が占領地支配の障害になるとして天津英仏租界を封鎖してイギリスに圧力をかけると,アメリカは7月に日米通商航海条約の廃棄を通告した。つづくノモンハン事件,独ソ不可侵条約で日本が国際的に孤立するなかで9月にヨーロッパで第2次大戦が起こると,阿部信行内閣は〈欧州戦に介入せず支那事変解決に邁進(まいしん)する〉と声明した。陸軍は日中戦争を迅速に処理して大戦の拡大に対応しようと支那派遣軍総司令部(総司令官西尾寿造,総参謀長板垣征四郎)を新設。日本軍は抗戦中国への補給路遮断のため南寧作戦を実施したが,中国軍は冬季反攻に出て日本軍を苦しめた。
日本の経済危機も深刻化した。1939年夏は日照りと労働力不足とで電力不足,石炭不足に見舞われ産業活動は低下した。凶作が引き金で米不足が起こり,生活必需品の不足が広がった。これに第2次大戦による輸入困難も加わってインフレは増進した。社会不安は激化し,40年1月には阿部内閣は退陣に追い込まれた。2月には衆議院で斎藤隆夫代議士が歴代内閣の戦争方針を批判し,憤慨した軍部の圧力で〈聖戦〉冒済(ぼうとく)だとして除名されたが,この事件は国民の間の日中戦争批判や厭戦(えんせん)気分の高まりを示した(反軍演説問題)。
[戦争の拡大] 1940年5月にドイツが電撃戦を開始してめざましい成功を収めると,日本ではこれに呼応する武力南進論が高まった。まずイギリス,フランスの苦境につけこんで中国への補給路封鎖を要求し,北部フランス領インドシナに軍事監視団を駐留させ,イギリスには向こう3ヵ月間ビルマ・ルートを閉鎖させた。日本軍は重慶爆撃を強化して国民政府を屈伏させようとし,国民政府も動揺した。だが第2次近衛内閣が9月に日独伊三国同盟を結び,3月に成立した汪政権と11月に日華基本条約を結びこれを承認すると,アメリカ,イギリスは中国援助に積極的にのりだし,中国を含めた連合国の結束は強化された。日本は日中戦争によってアメリカ,イギリスとの対立を深め,枢軸国と連合国との世界的対立へと引き込まれたのである。この夏に八路軍は百団大戦を行い日本軍に打撃を与えたが,他方で国共対立も激化し,日本軍は41年7月から残虐な三光政策を用いて解放区の根拠地の封鎖と掃討を推進した。
1941年4月には日米交渉が極秘で開始されたが,6月の独ソ開戦ののち日本軍の南部仏印進駐,アメリカ,イギリス,オランダ3国の日本資産凍結と対日石油輸出禁止,と情勢は緊迫した。近衛首相は中国からの部分的撤兵による切抜けを図ったが,東条英機陸相は強硬に反対して政変となり,東条内閣が成立した。11月にアメリカは日本に〈満州国〉を含む全中国からの撤兵を求めるハル・ノートを手交し,日本はこれを拒否して太平洋戦争に突入した。中国も12月9日に日独伊3国に宣戦を布告した。日本軍は直ちに中国の外国租界と香港を占領し,重慶攻撃も計画したが,ガダルカナル戦の悪化で中止された。43年1月には汪政権と租界還付,治外法権撤廃を約し,汪政権はアメリカ,イギリスに宣戦した。アメリカ,イギリス両国も中国と特権撤廃の新条約を結んだ。中国はようやく不平等条約の打破に成功したのである。11月には待介石主席は F. ローズベルト・アメリカ大統領,チャーチル・イギリス首相とカイロ会談を行い,台湾・澎湖島の中国返還,朝鮮の独立,日本の無条件降伏をめざすカイロ宣言を発表した。
[終戦] マリアナ敗戦で1944年7月に東条内閣は倒れ,小磯国昭内閣が成立すると,最高戦争指導会議は〈満州国〉の存立だけを条件に中国と和平する方針を決めた。おりから中国では国民政府軍の戦意が急激に低下し,アメリカ,イギリスはそのてこ入れもあって B29の中国配備をすすめた。日本軍は4月から京漢,粤漢両線打通の大作戦を開始し,11月には広西省の桂林,柳州をも占領した。しかし,B29は四川省の成都に進出し,6月にはサイパン島上陸に呼応して北九州爆撃を開始したのである。その後アメリカ軍は太平洋方面からの日本攻撃を強化し,中国の B29もマリアナ基地に移った。だが中国でも45年に入ると新編成の中国軍はアメリカ空軍の援護をうけて反撃力を強め,4月からの日本軍の早江(しこう)(湖南省南西部)作戦はみじめな失敗に終わった。日本軍はアメリカ軍の上陸と対ソ戦に備えて兵力の上海,武漢,北京付近への集中と,満州への移動とを開始した。7月26日にはポツダムでトルーマン,チャーチルと待介石による米英中共同宣言が発表され,日本に降伏を呼びかけた。鈴木貫太郎首相が黙殺と談話すると,アメリカ軍は8月6日に原子爆弾を広島に投下し,8日にはソ連が日本に宣戦して9日から満州への進撃を開始した。日本政府は14日にポツダム宣言を受諾して降伏し,日中戦争を含めて太平洋戦争は日本の敗北で終りを告げた。
8月15日に待介石は〈怨みに報ゆるに怨みを以てするなかれ〉と日本人民への寛容を説いた。これに先立って延安の朱徳総司令は八路軍と新四軍に近辺の日本軍の武装解除を命令したが,待介石は日本軍に国民政府軍の到着を待ち,それまで所在地の秩序維持にあたるよう命令したため,しばらく局地的な軍事行動が続いた。連合国最高司令部は東北を除く中国,台湾と北緯16ツ 以北のフランス領インドシナの日本軍は待介石に降伏することを指令し,アメリカ軍は南西の奥地にある国民政府軍の空輸にあたった。9月9日には岡村寧次支那派遣軍総司令官が南京で降伏文書に調印した。当時の支那派遣軍の総兵力は105万人に達していた。日中戦争による日本軍の死者は41万人,戦傷病者は92万人であるが,中国のうけた被害ははるかに甚大で,軍人の死者130余万,戦傷病者約300万人,民間人の死傷者は約2000万人にのぼる。8年余にわたる中国の抗戦は,日本帝国主義に大打撃を与え,日本を敗北させ東アジアを解放するうえで最も重要な役割を担った。
1949年10月の中華人民共和国の成立後の51年9月にはサンフランシスコ対日平和会議が開かれ,対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)が調印された。日本はこれによって台湾,澎湖島に対する一切の権利と中国におけるすべての特殊権益とを放棄したが,中華人民共和国も台湾の国民政府も会議には招かれなかった。52年4月に吉田茂内閣は台湾の国民政府と日華平和条約を結んだが,72年9月には田中角栄首相が訪中して日中国交正常化の共同声明に調印し,日本政府は日華平和条約は終了したと発表した。翌年1月には大使が交換され,78年8月に日中平和友好条約が調印された。⇒抗日戦争∥太平洋戦争
今井 清一
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企画院
きかくいん
1937年創設された内閣直属の総合国策立案機関であるが,事実上は内閣の総動員関係の事務機関。1935年5月設置された内閣調査局は,37年5月企画庁に拡大改編され,陸軍から重要産業5年計画要綱案の提示をうけ,その検討に着手した。同年7月,日中全面戦争の開始にともない,総力戦体制の整備が急がれ,10月,総動員準備機関としての資源局と企画庁を統合することにより企画院が創設された。初代総裁は滝正雄。発足後当面した課題は,国家総動員法,電力国家管理法の制定,物資動員計画の設定,重要産業充実計画などであった。38年に入ると資金,労務,交通などの動員計画がたてられ,40年11月〈経済新体制確立要綱〉の原案が発表されたが,財界は要綱原案に反対した。企画院は戦時統制経済を推進する革新官僚の拠点として脚光をあびたが,統制経済強化への反発が生じ,41年企画院事件が起きた。42年11月まで4次の改組がなされたが,太平洋戦争の戦局悪化とともに,限られた資材,物資の獲得や発注をめぐり陸海軍の対立・抗争が激化し,さらに強力な権限を有した国家機関が求められるようになった。その結果43年11月,商工省と企画院が廃止され,新たに軍需省に統合再編された。⇒国家総動員 粟屋 憲太郎
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近衛文麿 1891‐1945(明治24‐昭和20)
このえふみまろ
軍部を中心とする勢力にかつがれて三たび首相となった貴族政治家。五摂家の筆頭の家柄で,貴族院議長,公爵近衛篤麿の長男であるが,出生直後に母を,少時に父を失う経験をもった。アジア主義者の父の因縁で頭山満ら右翼との関係も深いが,一高を経て東京帝国大学哲学科に入り,京都帝国大学法科に転じて河上肇らの指導もうけた。1919年のパリ講和会議には西園寺公望らの全権随員として参加したが,その直前に発表した〈英米本位の平和主義を排す〉には,西園寺の国際協調主義とちがってアジア主義と〈持たざる国〉の理論が現れており,それが彼の生涯を通ずる指導理念となった。これは後発帝国主義国の自己主張ともいえる。1931年貴族院副議長,33年に同議長となったが,満州事変以降の政局混乱のなかで天皇に近く,各方面に顔がきき,清新さと知性をあわせもつ近衛は将来の首相と目された。軍人らがしきりと接近する一方,級友の後藤隆之助らは昭和研究会をつくって政策作りに着手した。
二・二六事件直後に天皇から組閣を命じられて辞退したが,翌37年6月には広範な人気と期待をうけて第1次内閣をつくった。だが,7月に蘆溝橋事件がおこると高姿勢で対応して日中全面戦争に拡大させ,南京占領直後には〈国民政府を対手とせず〉声明を出して和平の道を閉ざした。しかし中国の抵抗は根強く,日本は長期戦の泥沼に引き込まれ,近衛内閣は1938年11月に東亜新秩序声明,12月に国交調整3原則の声明を出し,汪兆銘を抗戦から離脱させたところで,39年1月に総辞職し,近衛は枢密院議長となった。その秋に第2次世界大戦が始まり,1940年初夏にヒトラーの電撃戦が成功すると,これに呼応する新体制運動の中心人物として再び脚光を浴びた。7月に第2次内閣を組織し,武力南進方針の採用,日独伊三国同盟の締結,大政翼賛会の創立など大戦突入に備えたファシズム体制の樹立をはかった。しかしドイツのイギリス本土攻略は実現せず,41年春には日米交渉を開始した。6月の独ソ開戦ののち日米交渉に反対の松岡洋右外相をしりぞけて第3次内閣を組織したが,南部仏印進駐で交渉が行き詰まるなかで,中国からの撤兵問題をめぐって東条英機陸相と対立して10月に総辞職した。太平洋戦争の敗色こい45年2月には,〈国体護持の立場より憂うべきは敗戦よりもこれに伴う共産革命〉との上奏をおこない(近衛上奏文),終戦をはかった。敗戦直後には東久邇稔彦内閣の無任所大臣となり,ついで内大臣府御用掛として憲法改正の取調べにあたったが,戦犯容疑者の指名をうけ,出頭当日の未明に自殺した。 今井 清一
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東亜新秩序
とうあしんちつじょ
日中戦争下における日本の中国侵略を合理化するためのイデオロギーとスローガン。東亜新秩序構想の萌芽は,〈帝国指導の下に日満支三国の提携共助〉の実現を決めた1933年10月21日の斎藤実内閣の閣議決定にあった。それは満州事変勃発前後の〈日満ブロック〉構想を一歩進め,〈日満支ブロック〉の実現を国策として決定したものであり,36年8月7日の広田弘毅内閣下の5相会議決定〈国策の基準〉に受け継がれた。37年7月7日に勃発した日中戦争は,日本の予想に反して長期戦となり,38年1月16日近衛文麿首相は,〈爾後国民政府を対手とせず〉,日本は〈新興支那政権の成立発展を期待する〉との声明(第1次近衛声明)を発し,国民政府との和平交渉の道をみずから閉ざした。ついで同年11月3日,近衛首相は日本の戦争目的が〈日満支三国〉の提携による東亜新秩序建設にあると声明(第2次近衛声明)し,さらに陸軍の謀略により国民政府反待介石派の汪兆銘が重慶からハノイへ脱出した直後の12月22日,日本と〈更生新支那〉との提携の原則は〈善隣友好,共同防共,経済提携〉にあるという近衛3原則を発表した(第3次近衛声明)。東亜新秩序とは,欧米帝国主義と共産主義を東アジアから駆逐し,中国の抗日民族統一戦線を崩壊させ,〈日満支ブロック〉構想にもとづき日本が中国を排他的に独占支配することを合理化するためのイデオロギーであり,のちの大東亜共栄圏構想の先駆をなすものであった。 木坂 順一郎
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汪兆銘 1883‐1944
おうちょうめい W´ng Zhロo m∩ng
中国の政治家。広東省番禺県の人。字をもって汪精衛の名でも知られる。日本の法政大学に留学中,中国同盟会に加入,一時機関誌《民報》の編集に当たる。1910年(宣統2)清朝摂政王載祭(さいほう)の暗殺に失敗して死刑の宣告を受けたが,辛亥革命の成功により釈放。このとき革命の簒奪者袁世凱に深く接近して袁世凱と孫文との提携を策した行動がしばしば問題視されるが,国民党内では孫文直系の位置にあり,第二革命挫折後一時フランス遊学を余儀なくされた。孫文亡き後も左派を代表する指導者として,待介石による国共合作の破壊後,これと対立する武漢政府の主席に迎えられた。しかし結局は右派と妥協して統一政府の首脳に加わり,以後反待運動や下野亡命を繰り返しながらも行政院長,外交部長,党副総裁などの要職を歴任した。〈満州事変〉から日中全面開戦にかけて,しだいに対日和議論に傾き,抗日気運に棹さした待介石主流派と重ねて抗争を演じ,ついに38年12月抗戦主都重慶を脱出,日本側の近衛声明にこたえる和平宣言を発した。ついで日本側との協議やかけひきの末,40年〈反共和平救国〉と〈大アジア主義〉をうたった〈新中央政府〉を被占領下の南京に樹立,名目上の独立を誇示したものの,抗戦陣営に裏切りへの憤激を引き起こしたほかになすところないまま,44年名古屋で客死した。著書に《汪精衛文存》(1935)などの政論類のほか,詩集《汪精衛詩存》(1929)もあり,書生的感情家の一面を伝える。 木山 英雄
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松岡洋右 1880‐1946(明治13‐昭和21)
まつおかようすけ
外交官,政治家。山口県出身。13歳で渡米し,苦学して1900年にオレゴン州立大学を卒業し,04年外交官および領事官試験に合格,上海領事館,関東都督府,ロシア,アメリカに在勤した。21年に外務省を辞めて満鉄理事となり,27年には満鉄副総裁に就任,この間に対満蒙積極論の考えを強くする。29年に帰国,山口第2区から政友会代議士になった。31年の第59議会では幣原外交を批判し,満蒙は日本の生命線であると主張した。32年には上海事変処理のため外務大臣特使として上海に派遣された。また国際連盟総会には首席全権として出席し,33年2月連盟における満州国批判決議に抗議して退場,連盟脱退の“英雄”として右翼などに歓迎された。35‐39年満鉄総裁。40年7月に近衛文麿内閣の外相となるや〈大東亜共栄圏〉の確立を主張して,日独伊三国同盟を締結し,さらにソ連を加えた四国同盟を構想した。41年訪独・伊の帰途,4月に日ソ中立条約の調印にこぎつけたものの,その2ヵ月後に独ソ戦が開始され,一連の外交政策は完全に行き詰まった。同年7月,松岡の日米交渉反対論により内閣は総辞職した。その後は結核のため療養生活を続け,戦後 A 級戦犯に指名されたが,46年6月に病死した。 芳井 研一
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日独伊三国同盟
にちどくいさんごくどうめい
1940年,第2次近衛文麿内閣がドイツ,イタリアと結んだ軍事同盟。ベルサイユ体制に対して最大の不満を抱いたのは第1次世界大戦の戦敗国ドイツであったが,戦勝国であるイタリアもかなりの不満をもっていた。同じく戦勝国側にあった日本も,ベルサイユ体制の太平洋版であるワシントン体制への不満から,ベルサイユ体制の柱となっていた国際連盟に挑戦するにいたった。日本,ドイツ,イタリアが相ついで国際連盟を脱退する前後から,これら3国の接近が予想されていたが,軍事同盟への歩みは錯綜(さくそう)したものであった。日独防共協定(1936年11月25日)につづいて日独伊防共協定(1937年11月6日)が成立した後,ベルリン駐在武官大島浩と,1938年2月に外相に就任するリッベントロップとのあいだで,防共協定を軍事同盟に発展させるための交渉がつづけられた。日本海軍首脳部を中心に,日本国内にはドイツ,イタリアとの結合の強化への抵抗が強く,日本政府の態度はあいまいであった。リッベントロップは,さしあたり日本をぬきにしてイタリアとの〈鋼鉄の同盟〉と呼ばれた独伊軍事同盟(1939年5月22日)を成立させると同時に,3国の仮想敵であるはずのソ連に接近して,独ソ不可侵条約(同年8月23日)を結んだ。ここに,当時日本で〈防共協定強化問題〉と呼ばれていた,同盟への道程の第1段階は挫折をもっていったん終りを告げた。
同盟への道程の第2段階が本格化したのは,第2次世界大戦が〈奇妙な戦争 phony war〉の様相を脱して,ドイツの電撃戦によるヨーロッパ制覇に終わるようにみえた1940年初夏以後のことである。40年9月にリッベントロップ外相の特使シュターマー Heinrich Stahmer が来日して,9月27日に日独伊三国同盟が成立する。この第2段階での交渉は,三国同盟にソ連を加えた〈大陸ブロックcontinental block〉によりアメリカを牽制してその参戦をくいとめようという,リッベントロップの日独伊ソ四国協定構想にもとづいて進められる。外相松岡洋右を中心とする日本側がこの構想に全面的に賛成し,日本海軍も反対をやめたために急速にまとまった。しかし,ヒトラー独裁下のドイツでは,独ソ戦に執着するヒトラーが,リッベントロップの路線とは逆に,独ソ開戦(1941年6月22日)に踏み切ったため,四国協定構想は幻想に終わり,三国同盟はいたずらに日米関係を悪化させる結果をもたらした。 三宅 正樹
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〈南方占領地行政実施要領〉
これに対し東南アジアの占領地に対する支配方針は,〈南方占領地行政実施要領〉(1941年11月20日大本営政府連絡会議決定)によって定められたが,それはさしあたり占領地に軍政を実施し,軍政実施の目的は重要国防資源の獲得,治安維持および作戦軍の自活確保の3点であり,その本質は帝国主義的なものであった。日本軍は,インドネシア,フィリピン,マレーシア,ビルマなどで軍政をしき,親日的な現地の有力者や官吏を軍政機関に登用したり,のちには現地住民による〈政権〉を認めたりしたが,それらはいずれも現地指導者を傀儡(かいらい)として操る方式であり,軍政は現地住民に日本への絶対服従を強要する軍事独裁体制であった。日本軍は,アメリカ,イギリス,オランダが持っていた権益とそれらの国の資本が経営する企業をすべて接収し,〈委託経営〉の形で三井などの財閥系企業に接収企業を委譲し,現地住民労働者を劣悪な労働条件のもとで酷使した。農業面では,稲の作付けと供出が強制され,国防資源であるゴムなどの栽培が奨励された反面,茶,煙草,コーヒーなどの農園では稲やとうもろこしへの作付転換が強制され,現地住民の反発を招いた。
また各地で日本語の強制をはじめ日の丸への敬礼,〈君が代〉斉唱,宮城遥拝などの儀式が強制されるなど,性急な皇民化政策が実施された。そして皇民化政策以上に現地住民の反発を買ったのは,日本軍による残虐行為,強姦,現地調達主義に基づく〈徴発〉と称する物資と食糧の略奪であった。さらに日本軍は,ビルマ,マレーシア,ジャワなどの各地で労働力確保のため,現地住民の強制連行と連合国軍捕虜の強制労働を実施し,鉄道・道路の建設,陣地構築などの重労働に従事させた。そのため多くの犠牲者が出たが,タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道工事の場合には,工事に携わった捕虜5万5000名のうち1万3000名,現地労働者約5万名のうち3万3000名が死亡したと言われている。一方東条内閣は,〈大東亜政略指導大綱〉(1943年5月31日御前会議決定)に基づき,ビルマ国(1943年8月1日)とフィリピン共和国(1943年10月14日)を名目的に〈独立〉させ,汪兆銘の中華民国政府とのあいだに日華同盟条約(1943年10月30日)を締結したのち,各傀儡国家の首脳を集め,43年11月5~6日に東京で大東亜会議を開催したが,具体的政策協定もまとまらないままに終わった。
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拓務省
たくむしょう
日本の植民地統治に関する事務を統括した政府中央機関。植民地行政に関する中央官庁は,日清講和条約により台湾が日本の領土となった直後の1895年6月,台湾事務局が内閣に置かれたのに始まる。その後,先進国にならって植民地に関する独立の一省として拓殖務省(1896‐97)や内閣拓殖局(1910‐13,1917‐22)などが断続的には設置されてきた。1927年11月,朝鮮,台湾,樺太,関東州,南満州鉄道(満鉄)などの植民地行政の一元化を図るため独立の一省を設けるべく,田中義一内閣は拓殖省設置準備委員会を設け,29年の第56回帝国議会で拓殖省所管予算を通過させた。拓殖省の名称は,枢密院側の異議で拓務省に改められ,29年6月10日,官制の公布により設置された。拓務省官制第1条には,拓務大臣は朝鮮総督府,台湾総督府,関東庁,樺太庁および南洋庁に関する事務を統理し,南満州鉄道および東洋拓殖の業務を監督する権限を有し,また渉外事項に関するものを除くほか,移植民に関する事務および海外拓殖事業の指導奨励に関する事務を管理すると規定された。しかし,満州事変以後,陸軍の勢力が増大するにしたがって拓務省廃止論が起こり,34年12月には内閣に対満事務局が設置され,満州における拓殖事業に関する事務は同事務局に移管された。35年6月拓務省は南洋調査隊を派遣するなどしたが,42年11月大東亜省の設置(1945.8.25廃止)により,同年10月31日廃止され,朝鮮台湾樺太関係事務は内務省に移管され,他は大東亜省の主管となった。
河村 一夫
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大東亜省
だいとうあしょう
太平洋戦争中いわゆる大東亜共栄圏内の諸国ならびに諸地域に対する政務の施行を担当するため,1942年11月に設けられた省。拓務省,対満事務局,興亜院,外務省の東亜,南洋両局はこれに吸収され,同省は総務局,満州事務局,支那事務局,南方事務局をもって構成された。日本の占領地域ならびに勢力範囲に対する政治,経済,文化などの政務の施行を一元化すること,とりわけ中国における出先機関の一元化を目的とした。このため外務省の権限は弱体化した。同省設置は軍部の発案で,外務省から当該地域関係の外交権限を実質上奪うものであったから,東郷茂徳外相は同地域内の諸国を属領視するものとして同省設置に強硬に反対し,東条英機内閣下最大の政治問題となった。結局東郷外相が辞任し,初代大東亜相には汪政権顧問の青木一男が任命された。陸軍は軍司令官を大使とすることを主張したが,海軍の反対で文官をまじえることとなった。しかし,同省設置後,戦況の逆転により対華新政策,大東亜新政策がとられて政略が重視されたため,当初の企図は必ずしも実現しなかった。その反面,占領地域内では現地軍の政治指導が強力に行われ,大東亜省による政策の一元化も容易に達成されなかった。45年8月,敗戦により廃止された。 今井 清一
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東郷茂徳 1882‐1950(明治15‐昭和25)
とうごうしげのり
外交官。鹿児島県に生まれ,東京帝国大学を卒業し,1912年外務省に入る。中国,欧米で勤務ののち欧米局長,欧亜局長を経て37年駐独大使,38年駐ソ大使となる。41年東条英機内閣の外相兼拓相に就任したが,42年大東亜省設置に反対して辞任,貴族院議員に勅選された。45年鈴木貫太郎内閣の外相兼大東亜相として太平洋戦争終結に努力した。敗戦後極東国際軍事裁判で禁固20年の判決を受け,50年7月23日アメリカ陸軍病院で病死した。著書に《東郷茂徳外交手記――時代の一面》がある。 木坂 順一郎
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小林一三 1873‐1957(明治6‐昭和32)
こばやしいちぞう
都市近郊私鉄経営の先駆者。山梨県に生まれる。1892年慶応義塾を卒業後三井銀行に入社したが,1907年初めに辞職,同年10月,箕面有馬電気軌道(1918年阪神急行電鉄と改称,現阪急電鉄)を創設して専務となり,27年に社長に就任した。この間,乗客誘致のため沿線で住宅地を分譲し,宝塚には遊園地を開いて宝塚少女歌劇団をおこし,さらに梅田のターミナルビルでデパートを経営するなど,その独創的な経営戦略は私鉄経営の模範とされた。また27年以降は東京電灯(現,東京電力)の経営再建で活躍する一方,興行界にも進出し,東京宝塚劇場,東宝映画(1943年に合併して東宝となる)を創設して,松竹に対抗した。40年には第2次近衛文麿内閣の商工大臣,45年には幣原喜重郎内閣の国務大臣兼復興院総裁に就任したが,公職追放にあう。51年の追放解除後は東宝の社長に復帰。 野田 正穂
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芳沢謙吉 1874‐1965(明治7‐昭和40)
よしざわけんきち
外交官。新潟県出身。東京帝国大学文科大学卒業後,外務省に入り漢口総領事,中国公使館参事官,政務局長等を経て,1920年アジア局長兼欧米局長となる。23年から29年まで中国公使となり,日中間の諸問題の処理に尽力し,芳沢=カラハン会談(1924‐25)で国交樹立を交渉し,日ソ基本条約締結をもたらした。30年,駐仏大使,国際連盟日本代表となり,満州事変の処理に苦慮した。その後犬養毅内閣の外相となる。辞任後貴族院議員に勅選。41年駐仏印大使,45年枢密顧問官となる。第2次大戦後,公職追放の解除にともない,53年駐台湾大使に起用された。 金原 左門
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仏印進駐
ふついんしんちゅう
太平洋戦争前における日本軍の2度にわたるフランス領インドシナ占領。日中戦争解決の目途を失った日本は,1940年6月フランスがドイツに降伏したのに乗じ,援待ルートの切断と東南アジア侵略の前進基地獲得をめざし,国境監視,日本軍の仏印領内通過,飛行場使用などをフランスに要求した。富永恭次参謀本部第1部長らの強硬意見にもとづき現地交渉の結果,9月22日平和進駐に関する協定が成立したが,23日現地の陸軍第5師団の一部が鎮南関付近で独断越境してフランス軍と交戦し,25日フランス軍は降伏した(北部仏印進駐)。そのため日本とアメリカ,イギリスとの対立が強まり,アメリカは9月26日漢鉄の対日禁輸を発表し,イギリスも10月18日援待ビルマ・ルートを再開した。ついで日米交渉が難航し,独ソ戦争が開始された直後の41年6月25日,大本営政府連絡会議は〈南方施策促進に関する件〉により,南方作戦準備のため,仏印との軍事的結合関係の設定,新たな飛行場と軍港の確保,日本軍の南部仏印への進駐の諸要求を武力をもってでも貫徹するとの強硬方針を決定した。フランスは7月21日にほぼ日本の要求を受諾し,23日には現地で細目の話合いが成立した。7月28日日本軍は南部仏印へ上陸を開始し,29日仏印共同防衛に関する日仏議定書が調印された(南部仏印進駐)。これにより日本の東南アジア侵略の方針が明確となり,日本とアメリカ,イギリス,オランダ3国との対立が決定的となると同時に,日本はインドシナの民族解放運動と対決することになった。 木坂 順一郎
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