2020年11月22日日曜日

[その他] a day in the life 映画『メイキング・オフ・モータウン』鑑賞他

 11月21日(土曜日)


15:00 ギター教室

発表会が終わったので新しい練習曲ビートルズの「ミッシェル」に挑戦中。


17:30 ベース教室

新しい練習曲「スタンド・バイ・ミー」の練習開始。


19:00 映画鑑賞

八丁座で『メイキング・オブ・モータウン』を観ました。モータウンの音楽自体をあまり聴いておらず、映画の出来も期待せずに観ましたが、音楽ドキュメンター映画の傑作といえる素晴らしい出来でした。デトロイトの街自体が戦後のアメリカ史の典型のような街で、アメリカ史に興味のあるかたも面白い映画になってました。推薦します。







2020年11月21日土曜日

[積読立読斜読] 『陰翳礼賛』(谷崎潤一郎著、大川裕弘写真、パイインターナショナル、2018年) 3/6

 大川裕弘さんの写真で谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』スローリーディング中。

大川さんの写真が素晴らしいので、6回にわけて投稿します。

テキストは青空文庫からお借りしました。

 















八

 私は建築のことについては全く門外漢であるが、西洋の寺院のゴシック建築と云うものは屋根が高く/\尖って、その先が天に冲せんとしているところに美観が存するのだと云う。これに反して、われ/\の国の伽藍では建物の上にまず大きな甍を伏せて、その庇ひさしが作り出す深い廣い蔭の中へ全体の構造を取り込んでしまう。寺院のみならず、宮殿でも、庶民の住宅でも、外から見て最も眼立つものは、或る場合には瓦葺き、或る場合には茅葺きの大きな屋根と、その庇の下にたゞよう濃い闇である。時とすると、白昼といえども軒から下には洞穴のような闇が繞っていて戸口も扉も壁も柱も殆ど見えないことすらある。これは知恩院や本願寺のような宏壮な建築でも、草深い田舎の百姓家でも同様であって、昔の大概な建物が軒から下と軒から上の屋根の部分とを比べると、少くとも眼で見たところでは、屋根の方が重く、堆く、面積が大きく感ぜられる。左様にわれ/\が住居を営むには、何よりも屋根と云う傘を拡げて大地に一廓の日かげを落し、その薄暗い陰翳の中に家造りをする。もちろん西洋の家屋にも屋根がない訳ではないが、それは日光を遮蔽するよりも雨露をしのぐための方が主であって、蔭はなるべく作らないようにし、少しでも多く内部を明りに曝すようにしていることは、外形を見ても頷かれる。日本の屋根を傘とすれば、西洋のそれは帽子でしかない。しかも鳥打帽子のように出来るだけ鍔つばを小さくし、日光の直射を近々と軒端に受ける。けだし日本家の屋根の庇が長いのは、気候風土や、建築材料や、その他いろ/\の関係があるのであろう。たとえば煉瓦やガラスやセメントのようなものを使わないところから、横なぐりの風雨を防ぐためには庇を深くする必要があったであろうし、日本人とて暗い部屋よりは明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくあゝなったのでもあろう。が、美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれ/\の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、たゞ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼等としてはいかさま尤もであるけれども、それは陰翳の謎を解しないからである。われ/\は、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。われ/\の座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。われ/\は、この力のない、わびしい、果敢はかない光線が、しんみり落ち着いて座敷の壁へ沁み込むように、わざと調子の弱い色の砂壁を塗る。土蔵とか、厨とか、廊下のようなところへ塗るには照りをつけるが、座敷の壁は殆ど砂壁で、めったに光らせない。もし光らせたら、その乏しい光線の、柔かい弱い味が消える。われ等は何処までも、見るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り着いて辛くも餘命を保っている、あの繊細な明るさを楽しむ。我等に取ってはこの壁の上の明るさ或はほのぐらさが何物の装飾にも優るのであり、しみ/″\と見飽きがしないのである。さればそれらの砂壁がその明るさを乱さないようにとたゞ一と色の無地に塗ってあるのも当然であって、座敷毎に少しずつ地色は違うけれども、何とその違いの微かであることよ。それは色の違いと云うよりもほんの僅かな濃淡の差異、見る人の気分の相違と云う程のものでしかない。しかもその壁の色のほのかな違いに依って、また幾らかずつ各※(二の字点、1-2-22)の部屋の陰翳が異なった色調を帯びるのである。尤も我等の座敷にも床の間と云うものがあって、掛け軸を飾り花を活けるが、しかしそれらの軸や花もそれ自体が装飾の役をしているよりも、陰翳に深みを添える方が主になっている。われらは一つの軸を掛けるにも、その軸物とその床の間の壁との調和、即ち「床うつり」を第一に貴ぶ。われらが掛け軸の内容を成す書や絵の巧拙と同様の重要さを※(「ころもへん+表」、第4水準2-88-25)具ひょうぐに置くのも、実にそのためであって、床うつりが悪かったら如何なる名書画も掛け軸としての価値がなくなる。それと反対に一つの独立した作品としては大した傑作でもないような書画が、茶の間の床に掛けてみると、非常にその部屋との調和がよく、軸も座敷も俄かに引き立つ場合がある。そしてそう云う書画、それ自身としては格別のものでもない軸物の何処が調和するのかと云えば、それは常にその地紙や、墨色や、※(「ころもへん+表」、第4水準2-88-25)具の裂きれが持っている古色にあるのだ。その古色がその床の間や座敷の暗さと適宜な釣り合いを保つのだ。われ/\はよく京都や奈良の名刹を訪ねて、その寺の宝物と云われる軸物が、奥深い大書院の床の間にかゝっているのを見せられるが、そう云う床の間は大概昼も薄暗いので、図柄などは見分けられない、たゞ案内人の説明を聞きながら消えかゝった墨色のあとを辿って多分立派な絵なのであろうと想像するばかりであるが、しかしそのぼやけた古画と暗い床の間との取り合わせが如何にもしっくりしていて、図柄の不鮮明などは聊かも問題でないばかりか、却ってこのくらいな不鮮明さがちょうど適しているようにさえ感じる。つまりこの場合、その絵は覚束ない弱い光りを受け留めるための一つの奥床しい「面」に過ぎないのであって、全く砂壁と同じ作用をしかしていないのである。われらが掛け軸を択ぶのに時代や「さび」を珍重する理由はここにあるので、新画は水墨や淡彩のものでも、よほど注意しないと床の間の陰翳を打ち壊すのである。


       

九

 もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光りと蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。なぜなら、そこにはこれと云う特別なしつらえがあるのではない。要するにたゞ清楚な木材と清楚な壁とを以て一つの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が凹みの此処彼処へ朦朧もうろうたる隈くまを生むようにする。にも拘らず、われらは落懸おとしがけのうしろや、花活の周囲や、違い棚の下などを填うめている闇を眺めて、それが何でもない蔭であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。思うに西洋人の云う「東洋の神秘」とは、かくの如き暗がりが持つ無気味な静かさを指すのであろう。われらといえども少年の頃は、日の目の届かぬ茶の間や書院の床の間の奥を視つめると、云い知れぬ怖れと寒けを覚えたものである。しかもその神秘の鍵は何処にあるのか。種明かしをすれば、畢竟それは陰翳の魔法であって、もし隅々に作られている蔭を追い除けてしまったら、忽焉としてその床の間はたゞの空白に帰するのである。われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して自おのずから生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。これは簡単な技巧のようであって、実は中々容易でない。たとえば床脇の窓の刳くり方、落懸の深さ、床框の高さなど、一つ/\に眼に見えぬ苦心が払われていることは推察するに難くないが、分けても私は、書院の障子のしろ/″\としたほの明るさには、ついその前に立ち止まって時の移るのを忘れるのである。元来書院と云うものは、昔はその名の示す如く彼処で書見をするためにあゝ云う窓を設けたのが、いつしか床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りと云うよりも、むしろ側面から射して来る外光を一旦障子の紙で濾過して、適当に弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光線の明りは、何と云う寒々さむ/″\とした、わびしい色をしていることか。庇をくゞり、廊下を通って、よう/\そこまで辿り着いた庭の陽光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、たゞ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。私はしば/\あの障子の前に佇たたずんで、明るいけれども少しも眩まばゆさの感じられない紙の面を視つめるのであるが、大きな伽藍建築の座敷などでは、庭との距離が遠いためにいよ/\光線が薄められて、春夏秋冬、晴れた日も、曇った日も、朝も、昼も、夕も、殆どそのほのじろさに変化がない。そして縦繁たてしげの障子の桟の一とコマ毎に出来ている隈くまが、あたかも塵が溜まったように、永久に紙に沁み着いて動かないのかと訝あやしまれる。そう云う時、私はその夢のような明るさをいぶかりながら眼をしばだゝく。何か眼の前にもや/\とかげろうものがあって、視力を鈍らせているように感ずる。それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じつゝあるからである。諸君はそう云う座敷へ這入った時に、その部屋にたゞようている光線が普通の光線とは違うような、それが特に有難味のある重々しいもののような気持がしたことはないであろうか。或はまた、その部屋にいると時間の経過が分らなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出て来た時は白髪の老人になりはせぬかと云うような、「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことはないであろうか。


[ひとり「広島掃除に学ぶ会」] 通勤途上のゴミ拾い 11月16日(月)~20日(金)

 






[積読立読斜読] 『凡事徹底「一日一話」』(鍵山秀三郎著、PHP、2019年)11月21日~11月24日

 


2020年11月19日木曜日

[その他] ヒット商品2020年がわからない

 『日経トレンディ』選出。

こちらもほとんどわかりません。

コロナ禍で例年より傾向が違うようですね。



[その他] 紅白歌合戦の出場歌手がわからない


 半分以上知らない歌手となりました。

インターネット配信だけでCD出してない歌手もいるそうです。

老化防止のためにも知識としては仕入れておかないといけませんね。

年末の視聴に向けていろいろ学習していきます。




2020年11月18日水曜日

[積読立読斜読] 『凡事徹底「一日一話」』(鍵山秀三郎著、PHP、2019年)11月17日~11月20日


決断

整理を始めると、作業がなかなか前へ進まないことがあります。

整理する対象が「思い入れのあるもの」や「高価だったもの」や「未使用のもの」等の場合です。

そういうときこそ、頼りになる経営者の出番です。いま使ってないものは徹底的に捨てる決断をしてください。

整理によって会社が活気づくのであれば、代償の高くない決断だからです。

[積読立読斜読] 『苦海・浄土・日本 石牟礼道子 もだえ神の精神』(田中優子著、集英社新書、2020年)

 



集英社新書の新刊。

法政大学総長・田中優子さんの妖艶な着物姿と、水俣病のルポとしての認識しかなかった石牟礼道子さんの『苦海浄土』が折り合わず、そういえば池澤夏樹さんが選んだ文学全集に採用されていたのを思い出し、自分のあいまいな好奇心を確認するために購入してみました。




著者は1970年法政大学1年の日本文学科の授業で『苦海浄土―わが水俣病』が朗読され「これも文学か。この世にこういう文学があったのか」との衝撃を受け、以来石牟礼さんの文学を追走してきたそうです。


石牟礼道子の文学は私にとって「異世界」でありつつ「普遍」であり、一地方の言葉の世界でありながら、身体に響く言葉であった。そしてなにより、私の世代に向けられた言葉であった。胎児性水俣病患者の最初期の人々は、私と同世代だった。「私は彼らだったかもしれない」という思いを、私はずっと持ち続けている。

P12


『苦海浄土』をはじめとする石牟礼道子さんの作品は、残念ながら読んだことがなく、水俣病のルポ程度の認識しかありませんでした。池澤夏樹さんの個人編集の河出書房新社『世界文学全集』『日本文学全集』の両方で石牟礼道子さんの作品を採用し、「世界」のほうでは日本人作家の長編としては唯一『苦海浄土』を採用。


<池澤夏樹さんの推薦の弁>

水俣の不知火海に排出された有機水銀によって、自然が、人間が、破壊し尽くされてゆく悲劇。

美しい風土に恵まれた水俣の地を故郷として育った著者は、中毒患者たちの苦しみや怒りを自らのものとして預かり、「誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」として、優れた文学作品に結晶させた。「苦海浄土」「神々の村」「天の魚」の三部からなる、戦後日本文学を代表する必読の書。

http://www.aoyamabc.jp/fair/ishimure/



著者の田中優子さんがコロナ禍の2020年に本書を世に問うた意味は何なのでしょう。


経済(経世済民)はいのちのために存在するものだが、経済と人命を天秤にかけながら政治が動いていくこの毎日を、石牟礼道子ならどう観察し、ほとんどがその当事者である世界の人々の苦悩を、どう言葉にしたであろう。この問いは、私ならどう言葉にできるか、という問いでもある。まだ答えは見いだせない。しかしこういう災禍のときこそ、「石牟礼道子ならどう書いたであろう」と問うことが、必要なのである。

P14


本書は石牟礼道子さんの社会活動よりも文学作品の解説を柱に、基礎を石牟礼道子さんの生涯に置くことで、水俣病という現代社会の矛盾よりも、近代の人間の自我(特に女性)の解放も論点に置き、重層的な評論となっています。


序章 石牟礼道子の重層する「二つの世界」

第一章 母系の森の中へ

第二章 闘う共同体

第三章 もだえ神

第四章 祈るべき天と思えど天の病む


特筆すべきは序章にある田中優子さん作成の「石牟礼道子の世界」の図。近代と現代の葉境に立ち、家と外の境界に立つ、石牟礼道子さんの重層的な矛盾を表しています。



自殺願望が強かった石牟礼さんが農家の嫁として趣味で文学を続けようと小さく決心した時に水俣病に出会い、まるで憑依したかのように活動する様は現代の「巫女(シャーマン)」と言えるかも知れません。

第二章は島原・天草一揆に材をとった『春の城』の解説です。石牟礼道子さんが水俣病の闘争を通じて夢想したのは、虐げられた女性の自我をフェミニズムに向かわせることではなく(自我の解放は他の自我の浸食となる)、公害企業に対して訴訟を起こし賠償金を勝ち取ることでもなく、圧政からの解放でもなく、「新しい共同体」でした。


P101

「共同体というのは、万物が呼吸しあっている世界だと思ってきました」



水俣病にはチッソという敵が可視化できましたが、COVID-19(新型コロナ)は見えません。直接の原因はウイルスですが、遠因は「生態系への人間の進出」で①生態系の破壊、②グローバル化による人間の移動距離・速度の拡大、が重なって世界的なパンデミックになったようです。際限のない経済成長を改めない限り同じことが繰り返されますが、それを語る文学者もおらず、手をこまねていいるしかないのかも知れません。


当方のような凡庸な人間でも「石牟礼道子ならどう書いたであろう」という認識を持ち続けることが重要なのでしょう。読了まで時間がかからない新書ですが読後感は重いです。


本書は田中優子さんの著作となっていますが、アンカーがフリーライターの宮内千和子さん、編集者の伊藤直樹さん(集英社)、との共作のようです。(全員法政という偶然だそうです)。



<石牟礼道子さんプロフィール>


 1927年、熊本県生まれ。10代より歌作を始め、20代からは歌壇に作品を投稿、才能を認められるようになる。69年、『苦海浄土』三部作の第一部となる『苦海浄土―わが水俣病』を刊行、第一回大宅壮一賞に選ばれるが受賞を辞退する。73年、マグサイサイ賞受賞。その後『椿の海の記』『あやとりの記』など次々に作品を発表する。92年刊行の『十六夜橋』で紫式部文学賞受賞。2001年、朝日賞受賞。『はにかみの国―石牟礼道子全詩集』で02年度芸術選奨・文部科学大臣賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)。2018年没(90歳)。


https://temiko9430.wordpress.com/2018/01/29/%E8%8B%A6%E6%B5%B7%E6%B5%84%E5%9C%9F/


<著者プロフィール>

田中優子(たなか・ゆうこ)

1952年神奈川県生まれ。法政大学社会学部教授(近世文学)等を経て法政大学総長。2005年紫綬褒章受章。

著書に『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫/芸術選奨文部大臣新人賞受賞)、『近世アジア漂流』(朝日文芸文庫)、

『江戸百夢 近世図像学の楽しみ』(ちくま文庫/芸術選奨文部科学大臣賞、サントリー学芸賞受賞)、

『江戸の恋-「粋」と「艶気」に生きる』(集英社新書)、『カムイ伝講義』(ちくま文庫)、『布のちから 江戸から現在へ』(朝日文庫)など多数。


https://shinsho.shueisha.co.jp/



<内容紹介>

水俣病犠牲者たちの苦悶、心象風景と医療カルテなどの記録を織りなして描いた、石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』は類例のない作品として、かつて日本社会に深い衝撃を与えた。

だが、『苦海浄土』をはじめとする石牟礼文学の本質は告発だけではない。

そこには江戸以前に連なる豊饒な世界と近代から現代に至る文明の病をも射程に入れた世界が広がる。

経済原理優先で犠牲を無視し、人間と郷土を踏みにじる公害、災害。

それは国策に伴い繰り返される悲劇である。

新型コロナウイルスの蔓延が状況を悪化させる中、石牟礼本人との対談、考察を通し世界的文学者の思想に迫る、評伝的文明批評にして日本論。

今は亡き文学者に著者は問い、考える。

「石牟礼道子ならどう書いたであろう」と。


https://shinsho.shueisha.co.jp/



<資料>

水俣病  

みなまたびょう 


工場排水に含まれたメチル(有機)水銀が海や川の魚介類を汚染し,それを食べたヒトに発症したメチル水銀中毒。熊本県水俣市で最初発見されたのでこのように呼ばれている。公害病の代表的なものとして内外に有名。

 1956年,水俣湾を中心に不知火海(八代海)一帯に発生した水俣病のほかに,65年の新潟水俣病(阿賀野川有機水銀中毒事件)もある。両者ともアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀が原因で,水俣の場合は,新日本窒素肥料(のち,チッソと改名)水俣工場が汚染源であった。原因究明は1959年7月,熊本大学医学部水俣病研究班によってなされたが,政府がそれを正式に認定したのは68年9月であり,この遅滞が対策の遅れをもたらし,政府が正式に解決策を提示したのは実に95年12月であった。

[症状] 中枢神経系の障害が特徴である。初期の患者では手足のしびれ感,脱力,歩行時動揺,言葉不明りょう,手足痛などから始まり,痙攣,よだれ(流涎),ふるえ,そして四肢麻痺,視力障害,意識混濁,精神錯乱がみられ,発病3ヵ月以内に半数以上が死亡するという激烈なものであった。典型例では末端に強い四肢の感覚障害,運動失調,難聴,言語障害,求心性視野狭窄,ふるえなどの共通の症状群を示した。これは,最初にメチル水銀中毒の症状を詳細に報告したイギリスの医師たちの名にちなんでハンター=ラッセル症候群と呼ばれている。病理学的にも特徴があって,後頭葉鳥距野(視覚中枢),中心回領域(運動および感覚中枢),側頭葉横側頭回領域(聴覚中枢)など大脳皮質が選択的に強く障害される。小脳では皮質の顆粒細胞層の脱落,末梢神経では感覚繊維の変性などが認められる。

 1970年になってから,これらの典型・急性激症患者のほかに,とくに家族や近隣者にさまざまな神経症状が認められることが明らかになり,潜在性水俣病と呼ばれた。すなわち,等しく汚染された住民にさらに多数の,多彩な,さまざまの程度のメチル水銀中毒の存在が明らかになった。これらは非典型例,不全型,軽症水俣病と呼ばれた。そのほかに,水銀の摂取を止めても症状が進行する例(遅発性水俣病),徐々に症状が進行する例(慢性型水俣病)などの存在も明らかになった。

[胎児性水俣病] 妊娠中に母親がメチル水銀を含んだ魚介類を食べ,それが胎盤を通過して起こった先天性(胎児期)のメチル水銀中毒で,1958年ころに発見され62年に最終的に結論が出された。妊娠中,分鞄時に異常はなく,出生後の精神・運動機能の発達遅滞によって気づかれた。症状は一般の脳性小児麻痺に酷似しているが,発生率が異常に高く(多発地区の発生率は9.0%,対照は0.59%),家族に水俣病患者が多く認められ,毛髪や臍帯中の水銀が高値を示すなどによって診断される。現在,水俣で64例,新潟で1例,外国ではスウェーデン,アメリカで各1例,イラクで5例が見つかっている。

[疫学] 1950年代から70年代前半まで患者の発生をみる。60年の人口統計でみると,猫が魚を食べて狂死したような汚染地区に住み汚染を受けた住民は20万人を下らない。この人たちの現在の実態はまだ明らかではない。96年1月現在,公害健康被害補償法に基づく熊本,鹿児島両県の公害被害者認定審査会が正式に水俣病と認定したものは2260人,棄却1万4205人,そのほかに審査未処理者が1019人いる。新潟では認定患者690人,棄却されたもの1304人である(図)。

[補償問題] 1969年6月,患者の一部(29世帯)はチッソを相手に総額6億4239万0444円の損害賠償請求訴訟を熊本地方裁判所に起こした(一次水俣裁判といわれる)。73年3月20日,熊本地裁はチッソの過失責任を認め,患者勝訴をいい渡した。その結果,1600万円から1800万円が症状に応じて支払われることになった。さらに,この訴訟派や新しい認定患者のうち自主交渉を求める人たちはチッソとの直接交渉を求めて東京本社前に1年8ヵ月にわたる座り込みを行い,この激しい闘争の結果,73年7月9日,患者とチッソは〈水俣病補償協定〉を結んだ。1959年の見舞金契約,70年の補償処理など第三者のあっせんによる補償契約はすでにあったが,患者がチッソの加害責任を認めさせたうえで自主的に契約したものであり,判決で救済されなかった患者の将来の生活と医療の保障を年金と基金という形で認めさせた点で画期的なものであった。しかし,それでも救済の枠は認定審査会の審査によって狭く限定されており,全面救済には至らなかった。認定審査会から棄却(水俣病でない)された患者が直接チッソを相手に起こした二次訴訟(一審では14人中12人を水俣病と認定),国・県の認定(救済)の遅れの責任を追及する不作為違法確認請求は勝訴した。さらに,国・県の責任と水俣病であることの認定を求めた三次訴訟(熊本,福岡,関西,京都,東京)は原告2200人にのぼった。新潟でも230人が二次訴訟を起こした。しかし,96年5月,関西訴訟を除いて政府の解決案を受入れて和解し,訴訟を取り下げた。その結果,一定の神経症状をもつ患者1万4000人が一時金280万円と医療費,療養手当を受けることになった。

[安全宣言] 熊本県と国は,チッソが36年間にわたって水俣湾にたれ流した高濃度(25ppm以上)の水銀を含むへどろを,14年の歳月と約484億円をかけて埋め立てた(1990年3月完了)。処理面積2110km2,浚渫汚泥量1500km3という世界でも例をみない大工事であった。その間,汚染魚の移動防止という理由で74年1月から2350mの仕切網で水俣湾を取り囲み(ただし,船舶の出入りのため250mは開いていた),さらに漁獲を禁止した。97年7月,熊本県知事は湾内の魚の水銀値が3年間安全基準以下であったとして安全宣言を行い,9月に仕切網が撤去された。しかし,今後の環境監視,医療や福祉,地域の振興や心のケアなど残された問題は多い。

 一方,チッソは,増大する補償金とへどろ工事費などのために経営危機にあって,熊本県は地方債(県債)を発行しているが,96年2月の段階で償還予定額は元利合わせて約2500億円になっており,熊本県の財政そのものにも深刻な問題を投げかけている。                原田 正純


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島原の乱  

しまばらのらん 


江戸初期の1637‐38年(寛永14‐15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓一揆。天草の乱ともいう。領主松倉・寺沢両氏の重税は有名であるが,年貢減免等の世俗的要求でも,かつてキリシタンの中心地であったがゆえに,信仰による抵抗にすりかえ,さらなる弾圧と収奪が正当化されたところに〈苛政〉の特質があった。加えて相つぐ凶作のため,終末観念や救世者出現の期待は急速に広まった。10月25日島原半島南部に端を発した一揆は,翌26日島原城を猛攻して落城の危機に追い込んだ。藩では急を参府中の藩主松倉勝家に報ずるとともに,近隣諸藩に救援を求めた。しかし諸藩は幕府の指示を待って動かず,一揆は4万石の藩全域に及んだ。27日には有明海をはさんだ天草大矢野島でも蜂起し,やがて島原勢と合流して城代三宅藤兵衛を敗死させ,天草4万石のほぼ半ばを席巻して富岡城を囲み(11月19~23日)落城寸前にまで追いつめた。一揆の報が江戸に達すると,キリシタン一揆として事態を重視した幕府は,板倉重昌を上使とし,佐賀,久留米,柳河の3藩に出動を命じた。彼らが島原に到着する12月5日の直前,かなりの村々は領主側に転じたが,島原南部諸村と天草の一部の老幼男女2万数千人は,石垣だけの廃城となっていた旧領主有馬氏の原城にたてこもり,12月10日以降一揆の第2段階をむかえた。つまり居村を根城にした個別領主との農民一揆から,幕府権力そのものと対決する宗門一揆への転換である。

 板倉重昌は,重ねての上使として老中松平信綱の派遣を知ると,その到着前に落城させるべく38年元旦に強引な総攻撃を命じ,みずからは討死した。1月4日に着陣した信綱は,十分な陣地構築と兵粮攻めに転じ,九州全域の藩主自身と備後福山の水野勝成が参戦し,総勢十数万,中国,四国の諸藩にも出動準備が命ぜられた。また平戸のオランダ商館長に命じて船砲を打ち込ませ,長崎在住の明人や町人の参戦,矢文や捕われの四郎の縁者等による投降勧告も続けられた。しかし城内の結束は固く,ついに食糧等が尽き果てた2月27,28日の総攻撃で全員殺害された。一方幕府側も攻城の期間を通じて死者2000余,負傷1万以上をかぞえ,抵抗の激しさを物語っている。この乱を乗り切った幕府は,信綱を中心に幕閣機構を確立し,松倉勝家に斬罪,寺沢堅高に天草没収,軍紀違反の大名・旗本に閉門を科す一方,禁教の強化をてこに農民統制を強め,ポルトガル貿易禁止にふみ切り(1639)鎖国政策を大きく前進させた。今日,宗門一揆説より農民一揆説が有力であるが,蜂起当初諸藩が探った情報によると,転びキリシタンの〈立上り〉とする宗門一揆説のほか,領主の苛政原因説,さらに信仰を掲げるのは上使の下向を引き出して領主の失政を越訴する策謀であるとする偽装宗門一揆説もあった。 中村 質


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[惹句どんどん] 石牟礼道子(作家)


 

悶えてなりとも加勢(かせ)せんば


計算をしないで人に尽くす人がいましたね。何か事件が起こると、何はともあれ見舞いにいく。ある家に怪我人が出たり病人が出たりすると、我が事のようにかけつける。

でも何もしてあげることができないで、ためになることをしようにも、そのやり方が分からん。心配して立っているんだけれども、何もできないんです。

それでも「悶えてなりと加勢する」と、悲嘆に暮れるようなことがる家があると、真っ先にかけつけるんです。でも、チッソはかけつけてきてくれなかった。


『苦海・浄土・日本 石牟礼道子 もだえ神の精神』(田中優子著、集英社新書、2020年)より



2020年11月17日火曜日

[その他] 10日と25日は "Punk in"(パン喰い)の日 パン・クロッシュ(安佐南区祇園)


11月16日(日曜日)。 開店9時に訪問。

余命いくばくもない老人です。保守的になるので定点でパン屋さん訪問。

「10日と25日はパン屋の日」、しばらく不定期になっておりましたが、復活。

本日は10日のを忘れていたので、戸坂に嫁いだ次女宅訪問途中に立ち寄りお土産代わりに購入。

複数回行きたいと思えるパン屋さんはあまりありませんが、こちらは何度でも行きたい店ですね。クリスマス用にシュトレンを作っておられてので購入しました。

少人数で休みもしっかり取り、営業時間も短く、売り切れ終了、小さい店構え、と、ひと昔までの大型店はなくなり、パン屋さんはこうなっていくのかも知れません。

(もとドンクで働かれて独立だそうです)


[店舗データ]

パン・クロッシュ PAIN Cloche

広島市安佐南区祇園2-14-3

082-874-0833

9時~18時(売り切れ終了)

木曜・金曜・定休日


2020年11月15日日曜日

[あの頃のレコード] 『細野晴臣 / HoSoNoVa』(2011年)

 『細野晴臣 / HoSoNoVa』(2011年)



ヴォーカルの入ったソロアルバムとしては、ファースト・ソロ『HOSONO HOUSE』以来38年ぶりのアルバム。2020年11月3日の「レコードの日」企画としてアナログ盤で再発したものを購入しました。発売時には聴いてません。最近はまとめて細野さんのアルバムを聴いてます。


全編に漂うちょっとした気だるさが心地よい、古いボサ・ノヴァの影響だそうです。細野晴臣さんは1947年生まれなので、本作製作時は64歳。ミュージシャンとしてうまく枯れた円熟の極みの演奏・ヴォーカルです。当方の世代ももうすぐ64歳なので、今聴くべき音楽と言っていいかも知れません。


往年のポップス/ブルースのカヴァー以外、全体の2/3がオリジナル曲。



新旧豪華ミュージシャンが参加されてます。


「旧」は鈴木茂(ギター/06,11)、林立夫(ドラム/07,08)、佐藤博(キーボード/07,08)といったティン・パン・アレーのメンバーやオノ・ヨーコ(ヴォイス/11)、そしてはっぴいえんどのラスト・アルバム以来となるヴァン・ダイク・パークス(ピアノ/09)が参加。


「新」はCocco(ヴォーカル/08)、中村まり(コーラス/10,11)など。


同じレーベルのなじみのミュージシャン、コシミハルのアコーディオンや、高田漣のマンドラ(マンドリン)の音色があたたかい穏やかな前半と、ドラムが活躍して少し気分も盛り上がる後半、といったような流れになっています。


タイトルの『Hosonova』はボサ・ノヴァの影響もあり、最初のソロアルバム『HOSONO HAUSE』(家)からうずおずと顔を出し(場)にそろそろ出ても良い、という洒落た心地の命題のようです。



Side A

01. Ramona  

02. Smile  

03. 悲しみのラッキースター  

04. Rosemary, Teatree

05. ただいま

06. Lonesome Road Movie


Side B

01. Walker's Blues  

02. バナナ追分  

03. Lazy Bones  

04. Desert Blues

05. Kimona Girl  

06. Love Me  

[積読立読斜読] 『陰翳礼賛』(谷崎潤一郎著、大川裕弘写真、パイインターナショナル、2018年) 2/6

 大川裕弘さんの写真で谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』スローリーディング中。

大川さんの写真が素晴らしいので、6回にわけて投稿します。

テキストは青空文庫からお借りしました。























五

 紙と云うものは支那人の発明であると聞くが、われ/\は西洋紙に対すると、単なる実用品と云う以外に何の感じも起らないけれども、唐紙や和紙の肌理きめを見ると、そこに一種の温かみを感じ、心が落ち着くようになる。同じ白いのでも、西洋紙の白さと奉書や白唐紙の白さとは違う。西洋紙の肌は光線を撥ね返すような趣があるが、奉書や唐紙の肌は、柔かい初雪の面のように、ふっくらと光線を中へ吸い取る。そうして手ざわりがしなやかであり、折っても畳んでも音を立てない。それは木の葉に触れているのと同じように物静かで、しっとりしている。ぜんたいわれ/\は、ピカピカ光るものを見ると心が落ち着かないのである。西洋人は食器などにも銀や鋼鉄やニッケル製のものを用いて、ピカピカ光る様に研みがき立てるが、われ/\はあゝ云う風に光るものを嫌う。われ/\の方でも、湯沸しや、杯や、銚子等に銀製のものを用いることはあるけれども、あゝ云う風に研き立てない。却って表面の光りが消えて、時代がつき、黒く焼けて来るのを喜ぶのであって、心得のない下女などが、折角さびの乗って来た銀の器をピカピカに研いたりして、主人に叱られることがあるのは、何処の家庭でも起る事件である。近来、支那料理の食器は一般に錫製のものが使われているが、恐らく支那人はあれが古色を帯びて来るのを愛するのであろう。新しい時はアルミニュームに似た、あまり感じのいゝものではないが、支那人が使うとあゝ云う風に時代をつけ、雅味のあるものにしてしまわなければ承知しない。そしてあの表面に詩の文句などが彫ってあるのも、肌が黒ずんで来るに従い、しっくりと似合うようになる。つまり支那人の手にかゝると、薄ッぺらでピカピカする錫と云う軽金属が、朱泥のように深みのある、沈んだ、重々しいものになるのである。支那人はまた玉ぎょくと云う石を愛するが、あの、妙に薄濁りのした、幾百年もの古い空気が一つに凝結したような、奥の奥の方までどろんとした鈍い光りを含む石のかたまりに魅力を感ずるのは、われ/\東洋人だけではないであろうか。ルビーやエメラルドのような色彩があるのでもなければ、金剛石のような輝きがあるのでもないあゝ云う石の何処に愛着を覚えるのか、私たちにもよく分らないが、しかしあのどんよりした肌を見ると、いかにも支那の石らしい気がし、長い過去を持つ支那文明の滓おりがあの厚みのある濁りの中に堆積しているように思われ、支那人があゝ云う色沢や物質を嗜好するのに不思議はないと云うことだけは、頷ける。水晶などにしても、近頃は智利チリから沢山輸入されるが、日本の水晶に比べると、智利チリのはあまりきれいに透きとおり過ぎている。昔からある甲州産の水晶と云うものは、透明の中にも、全体にほんのりとした曇りがあって、もっと重々しい感じがするし、草入り水晶などと云って、奥の方に不透明な固形物の混入しているのを、寧ろわれ/\は喜ぶのである。ガラスでさえも、支那人の手に成った乾隆グラスと云うものは、ガラスと云うよりも玉ぎょくか瑪瑙めのうに近いではないか。玻璃を製造する術は早くから東洋にも知られていながら、それが西洋のように発達せずに終り、陶器の方が進歩したのは、よほどわれ/\の国民性に関係する所があるに違いない。われ/\は一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳かげりのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人工の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光りなのである。尤も時代のつやなどと云うとよく聞えるが、実を云えば手垢の光りである。支那に「手沢」と云う言葉があり、日本に「なれ」と云う言葉があるのは、長い年月の間に、人の手が触って、一つ所をつる/\撫でているうちに、自然と脂が沁み込んで来るようになる、そのつやを云うのだろうから、云い換えれば手垢に違いない。して見れば、「風流は寒きもの」であると同時に、「むさきものなり」と云う警句も成り立つ。とにかくわれ/\の喜ぶ「雅致」と云うものの中には幾分の不潔、かつ非衛生的分子があることは否まれない。西洋人は垢を根こそぎ発き立てて取り除こうとするのに反し、東洋人はそれを大切に保存して、そのまゝ美化する、と、まあ負け惜しみを云えば云うところだが、因果なことに、われ/\は人間の垢や油煙や風雨のよごれが附いたもの、乃至はそれを想い出させるような色あいや光沢を愛し、そう云う建物や器物の中に住んでいると、奇妙に心が和やいで来、神経が安まる。それで私はいつも思うのだが、病院の壁の色や手術服や医療機械なんかも、日本人を相手にする以上、あゝピカピカするものや真っ白なものばかり並べないで、もう少し暗く、柔かみを附けたらどうであろう。もしあの壁が砂壁か何かで、日本座敷の畳の上に臥ねながら治療を受けるのであったら、患者の興奮が静まることは確かである。われ/\が歯医者へ行くのを嫌うのは、一つにはがり/\と云う音響にも因るが、一つにはガラスや金属製のピカピカする物が多過ぎるので、それに怯えるせいもある。私は神経衰弱の激しかった時分、最新式の設備を誇るアメリカ帰りの歯医者と聞くと、却って恐毛をふるったものだった。そして田舎の小都会などにある、昔風の日本家屋に手術室を設けた、時代後れのしたような歯医者の所へ好んで出かけた。そうかと云って、古色を帯びた医療機械なんかも困ることは困るが、もし近代の医術が日本で成長したのであったら、病人を扱う設備や機械も、何とか日本座敷に調和するように考案されていたであろう。これもわれ/\が借り物のために損をしている一つの例である。



六

 京都に「わらんじや」と云う有名な料理屋があって、こゝの家では近頃まで客間に電燈をともさず、古風な燭台を使うのが名物になっていたが、ことしの春、久しぶりで行ってみると、いつの間にか行燈式の電燈を使うようになっている。いつからこうしたのかと聞くと、去年からこれにいたしました。蝋燭の灯ではあまり暗すぎると仰っしゃるお客様が多いものでござりますから、拠んどころなくこう云う風に致しましたが、やはり昔のまゝの方がよいと仰っしゃるお方には、燭台を持って参りますと云う。で、折角それを楽しみにして来たのであるから、燭台に替えて貰ったが、その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。「わらんじや」の座敷と云うのは四畳半ぐらいの小じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電燈でも勿論暗い感じがする。が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆら/\とまたゝく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。そしてわれ/\の祖先がうるしと云う塗料を見出し、それを塗った器物の色沢に愛着を覚えたことの偶然でないのを知るのである。友人サバルワル君の話に、印度では現在でも食器に陶器を使うことを卑しみ、多くは塗り物を用いると云う。われ/\はその反対に、茶事とか、儀式とかの場合でなければ、膳と吸い物椀の外は殆ど陶器ばかりを用い、漆器と云うと、野暮くさい、雅味のないものにされてしまっているが、それは一つには、採光や照明の設備がもたらした「明るさ」のせいではないであろうか。事実、「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられないと云っていゝ。今日では白漆と云うようなものも出来たけれども、昔からある漆器の肌は、黒か、茶か、赤であって、それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生れ出たもののように思える。派手な蒔絵まきえなどを施したピカピカ光る蝋塗りの手箱とか、文台とか、棚とかを見ると、いかにもケバケバしくて落ち着きがなく、俗悪にさえ思えることがあるけれども、もしそれらの器物を取り囲む空白を真っ黒な闇で塗り潰し、太陽や電燈の光線に代えるに一点の燈明か蝋燭のあかりにして見給え、忽ちそのケバケバしいものが底深く沈んで、渋い、重々しいものになるであろう。古えの工藝家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光りの中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。つまり金蒔絵は明るい所で一度にぱっとその全体を見るものではなく、暗い所でいろ/\の部分がとき/″\少しずつ底光りするのを見るように出来ているのであって、豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまっているのが、云い知れぬ餘情を催すのである。そして、あのピカピカ光る肌のつやも、暗い所に置いてみると、それがともし火の穂のゆらめきを映し、静かな部屋にもおり/\風のおとずれのあることを教えて、そゞろに人を瞑想に誘い込む。もしあの陰鬱な室内に漆器と云うものがなかったなら、蝋燭や燈明の醸し出す怪しい光りの夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈搏が、どんなに魅力を減殺されることであろう。まことにそれは、畳の上に幾すじもの小川が流れ、池水が湛えられている如く、一つの灯影を此処彼処に捉えて、細く、かそけく、ちら/\と伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す。けだし食器としては陶器も悪くないけれども、陶器には漆器のような陰翳がなく、深みがない。陶器は手に触れると重く冷たく、しかも熱を伝えることが早いので熱い物を盛るのに不便であり、その上カチカチと云う音がするが、漆器は手ざわりが軽く、柔かで、耳につく程の音を立てない。私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたゝかい温味ぬくみとを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよ/\した肉体を支えたような感じでもある。吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではあゝは行かない。第一、蓋を取った時に、陶器では中にある汁の身や色合いが皆見えてしまう。漆器の椀のいゝことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持である。人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁ふちがほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつゝあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に啣ふくむ前にぼんやり味わいを豫覚する。その瞬間の心持、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。



七

 私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。茶人が湯のたぎるおとに尾上の松風を連想しながら無我の境に入ると云うのも、恐らくそれに似た心持なのであろう。日本の料理は食うものでなくて見るものだと云われるが、こう云う場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云おう。そうしてそれは、闇にまたゝく蝋燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用なのである。かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹ようかんの色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉ぎょくのように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。けだし料理の色あいは何処の国でも食器の色や壁の色と調和するように工夫されているのであろうが、日本料理は明るい所で白ッちゃけた器で食べては慥かに食慾が半減する。たとえばわれ/\が毎朝たべる赤味噌の汁なども、あの色を考えると、昔の薄暗い家の中で発達したものであることが分る。私は或る茶会に呼ばれて味噌汁を出されたことがあったが、いつもは何でもなくたべていたあのどろ/\の赤土色をした汁が、覚束ない蝋燭のあかりの下で、黒うるしの椀に澱んでいるのを見ると、実に深みのある、うまそうな色をしているのであった。その外醤油などにしても、上方では刺身や漬物やおひたしには濃い口の「たまり」を使うが、あのねっとりとしたつやのある汁がいかに陰翳に富み、闇と調和することか。また白味噌や、豆腐や、蒲鉾や、とろゝ汁や、白身の刺身や、あゝ云う白い肌のものも、周囲を明るくしたのでは色が引き立たない。第一飯にしてからが、ぴか/\光る黒塗りの飯櫃めしびつに入れられて、暗い所に置かれている方が、見ても美しく、食慾をも刺戟する。あの、炊きたての真っ白な飯が、ぱっと蓋を取った下から煖かそうな湯気を吐きながら黒い器に盛り上って、一と粒一と粒真珠のようにかゞやいているのを見る時、日本人なら誰しも米の飯の有難さを感じるであろう。かく考えて来ると、われ/\の料理が常に陰翳を基調とし、闇と云うものと切っても切れない関係にあることを知るのである。