本来、玄関とは「仏道への入り口」という禅宗の言葉でした。厳しく長い悟りへの道をくぐる人へ「玄関」を設け、その心構えを説いたのです。
いまでも禅寺では、玄関をとても大切にします。あらゆる人やものを通す玄関は、要所でありと同時に象徴ともいえますね。
あなたはふだん、玄関を意識して暮らしていますか。
家の顔であり、人を招き入れる玄関。毎日使う場所だからこと、念入りに掃除をして整えておきたいもの。靴を揃えて端に寄せる、靴箱にしまう。雨露や砂、ホコリは玄関をくぐる前にはらう。小さなことですが、こうしたことに気を配れない人は、他人にも気を配れるはすがありません。
玄関
げんかん
中国においては《老子》に〈玄之又玄衆妙之門〉とあるように幽玄の道の入口という意であったが,転じて禅学に入門するという意味に使われた。日本においても字義どおり使われたこともあるが,転じて禅宗寺院の方丈の入口を指すようになり,ついで,武家住宅の式台(戸口の前につけた低い板敷きの縁)付きの入口,さらには一般住宅の主要な入口を指すようになり,今日では一般住宅の入口の意味が定着している。
日本の禅宗寺院では,鎌倉時代末期に書かれた建長寺の伽藍指図中に,伽藍の中軸線にそって方丈西隣の得月楼にいたる廊の中扉に玄関の書込みがあり,方丈への入口を意味していたことがわかる。室町時代末期の遺構では,方丈前庭の下手に土間に瓦を敷いた廊を設け,その先端に扉をつけたものを玄関と呼んでおり,桃山時代から江戸時代になると,屋根を唐破風にするなど,表現がいくぶん派手になってくる。近世においては,玄関は武家住宅の表入口として威容を誇るようになるが,その成立過程ははっきりしない。武家住宅の入口に式台付きの土間を設け玄関と呼んだ例は,1627年(寛永4)に改造された二条城二の丸御殿のものが最も古い。玄関と呼ばれていたかどうかはわからないが,同じ形式の建物は1612年(慶長17)に建てられた名古屋城御殿表座敷や《匠明(しようめい)》所収の〈当代屋敷の図〉にも見られる。同じ形式の建物は室町時代末の内裏にもあり,車寄(くるまよせ)と呼ばれていた。公家の宸殿の建築における玄関の源流は,この,内裏の車寄にあると考えられる。平安時代の寝殿造では,建物への主要な入口は中門の横についた廊にあけられた妻戸であった。鎌倉時代になると,この妻戸は廊の側面にまわされ,軒に唐破風を設け,中門廊の車寄と呼ばれる。室町時代後期の武家住宅では,中門は退化して潅中門(へいぢゆうもん)になり,中門廊の車寄が正規の入口になるが,同時に副次的な入口として遠侍の表口が使用されるようになる。この遠侍の入口の前に軒唐破風付きの車寄をつければ,その形は二条城二の丸御殿の玄関になる。近世武家住宅の玄関は,このような遠侍前の車寄の形が禅宗方丈の玄関に類似しているところから玄関と呼ばれるようになったものと推測される。
17世紀の中ごろになると,武家住宅の平面も変化し,玄関は門の正面にあたる中央の位置を占めるようになる。また一般の武家屋敷も門の正面に式台付きの玄関を構えるが,家族や身分の低い来客のため,脇玄関が併せて設けられ,身分に応じて入口も使い分けるといった封建的な空間構成が定着した。庶民の住宅である民家には原則として玄関を設けることが禁止されていた。しかし,庄屋層の民家など,領内の巡見の役人を接待する家では,座敷の前に庇(ひさし)を差し掛け,式台を設けた玄関を作ることが許された。その形式は武家住宅に比べれば簡素であるが,家格を示す象徴的な意味合いを持った。寺院においては玄関を設けることが許されたため,庫裡(くり)と客殿や本堂との間に,1間四方の式台付きの玄関を設け,入母屋造の屋根を置く例が多い。
明治維新以後は,家作に関する禁令も廃されたので庶民の住宅も競って玄関を設けた。また,西洋風の住宅の入口も玄関と呼ばれ,大きな住宅では表玄関,内玄関が設けられることもある。明治末期から大正期にかけては,玄関を構えるということがひとかどの社会人として認められる,といった意味合いを持ったこともあって,小規模な借家にも玄関と座敷が設けられるようになった。身分制度が廃止され,それにともなう家作制限が取り払われた後に,玄関や座敷が持つ格式的な意味は増幅されたといってもよい。第2次世界大戦後,住宅の持つ封建的構成を取り除くということで,玄関という呼称や床の間の廃止などが提唱された。また,中高層建築の集合住宅では,1枚の扉で出入りするなど,住宅の形も出入口の形も大きく変化した。しかし,呼称としては玄関という語が一般的に用いられている。 鈴木 充
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