2019年12月7日土曜日

[その他] ギター教室のレッスン日


月2回程度、地蔵通りにあるギター教室(Fuzz Face Guitar School)に通っていて、本日は練習日でした。個人レッスンで1回が1時間です。

現在はビートルズの"Here comes the sun"、"Blackbird"、エリック・クラプトンの"Tears in heaven"を練習しております。なかなか上達せずですが、長い目で見てください。

[積読立読斜読] 『ペンギン・ブックスが選んだ日本の名短編29』(ジェイ・ルービン選、村上春樹序文、2019年新潮社)より 芥川龍之介「大地震」「金将軍」



芥川龍之介は二編が掲載。大項目の「災厄 天災及び人災」カテゴリーで「関東大震災 1923」の中の二編です。

「大震災」は1927年、芥川の自死後「或る阿呆の一生」の一部として発表された小説の断片のようなエッセイです。

これは関東大震災の翌年に書かれた「金将軍」を補完する形での掲載と思われます。

「金将軍」は1924(大正13)年の作品。文禄・慶長の役を朝鮮側から描いた不思議な作品で短編ですがずしりと重い読後感です。


秀吉の命で朝鮮に攻め込んだ小西行長や加藤清正に対して祖国を救おうとした英雄・金応瑞が主人公。行長の朝鮮人愛妓(実は女スパイ)と組んで、行長を殺害する話です。史実では行長は朝鮮では死んでいません。あくまで芥川の寓話です。「歴史を粉飾するのは必ずしも朝鮮ばかりではない」として、最後に「日本書記」での朝鮮・白村江の日本敗戦の記述を芥川は引用し「日本の歴史教科書は一度もこう云う敗戦の記事を掲げたことはないではないか?」と、その欺瞞を指摘しています。 また一緒に組んで行長を殺害した女性が行長の子を宿しているのを知った金将軍は、将来の厄災の予防として女も胎児も殺害してしまいます。武将の非情残忍な姿には日本も朝鮮も同じと、関東大震災から間もないころ正しい歴史認識を「金将軍」に託したと思われます。

「大地震」は非常にシニカルなスケッチ。全文引用します。震災を芥川は直接経験し、自警団にも参加していたそうで、自警団のファナティックな行動にも嫌気がさしていたようです。その前提で「大震災」「金将軍」を読むとより理解が深まると思います。

大地震(P344)
 それはどこか熟し切った杏の匂に近いものだった。彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐った死骸の匂も存外悪くないと思ったりした。が、死骸の重なり重なった池の前に立って観ると、「酸鼻」という言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した。殊に彼を動かしたのは十二三の子供の死骸だった。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。「神々に愛されるものは夭折す」―こう云う言葉なども思い出した。彼の姉や異母弟はいずれも家を焼かれていた。しかし彼の姉の夫は偽証罪を犯したために執行猶予中の体だった。……
「誰も彼も死んでしまえば善い」
彼は焼け跡に佇んだまま、しみじみこう思わずにいられなかった。



芥川竜之介  1892‐1927(明治25‐昭和2)
あくたがわりゅうのすけ

作家。東京の生れ。号,澄江堂主人など。俳号は我鬼。生後7ヵ月にして母の発狂のため,その実家芥川家に養育され,幼少年期を下町の本所に過ごす。養家は代々お数寄屋坊主を務め,その家系につたわる文人的・遊芸的気分はおのずからに彼の作風に影響を与え,その文人趣味とともにすぐれた鑑賞家の眼を育てた。府立三中,一高を経て1916年,東大英文科を卒業後,海軍機関学校の英語教官として19年まで勤めた。16年2月発刊の第4次《新思潮》に発表の《鼻》が,師夏目漱石の推恐を受け文壇に登場。翌17年には第1創作集《羅生門》を刊行。その多彩な文体の変化と巧緻をきわめた構想の妙を示す短編の数々に独自の世界をひらき,たちまちに大正文壇の寵児となった。その題材も《羅生門》(1915),《芋粥》(1916),《地獄変》(1918),《六の宮の姫君》(1922)など王朝の説話集に材をとった王朝もの,《奉教人の死》(1918)や《神神の微笑》(1922)のごとき切支丹もの,《戯作三昧》《或日の大石内蔵助》(以上1917)など江戸時代を舞台としたもの,《開化の殺人》(1918),《舞踏会》(1920)など明治初期に材をとった開化ものなどをはじめ多岐にわたったが,いずれもその鋭い人間批評とともに,また一面〈日本的優情〉とも呼ばれる繊細な抒情性をにじませ独自の短編世界を示した。そのすべてを作家のすぐれて意識的な試みと見る芸術観(《芸術その他》)は,やがて意識ならぬ無意識の世界,日常性そのものへの着目へと転移し,22年以後書き出される保吉もの(《保吉の手帳から》ほか)から《大導寺信輔の半生》(1925),《点鬼簿》(1926)などへと進むにつれ,己の出自をめぐる宿命への暗い凝視となる。その心身の衰弱のなかにも力編《玄鶴山房》や《河童》,珠玉の小品《蜃気楼》(以上1927)などに最後の光芒を見せつつ,やがて《或阿呆の一生》をはじめとする一連の遺稿の内にその作家的宿運の何たるかを語りつつ,27年7月24日未明,〈ぼんやりした不安〉の一句を遺書に残し,自裁の死をもって36年の生涯を閉じた。遺稿《歯車》や《西方の人》の語るその内なる西方と東方の相克,また日常性を“守らんとする”生活者の意識とこれを“超えんとする”芸術家の意識の損藤などを基底とする,彼自身のいう“無数の分裂”こそは,芥川という作家の存在が,まさしく大正から昭和への架橋を意味していたことを告げるものであろう。                  佐藤 泰正

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関東大震災
かんとうだいしんさい

1923年(大正12)9月1日11時58分,神奈川県中部から相模裁東部,房総半島南端にかけての一帯を震源域として発生したマグニチュード M7.9の大地震(関東大地震)に伴う日本史上最大の地震災害。震央は神奈川県西部の東経139.2ツ,北緯35.4ツ に求められているが,これは震源域の北西端に当たる。上記のマグニチュード値は日本の観測資料による値で,全世界の資料を用いた表面波マグニチュードは8.2となる。この地震は相模トラフから北東に傾く断層の右ずれ逆断層運動によって起こった。この断層はユーラシアプレートと,その下に相模トラフからもぐり込むフィリピンプレートとの,境界面に当たると考えられる。地震は南関東一帯に著しい地殻変動を伴い,房総半島南半,三浦半島から神奈川県の相模湾岸は隆起し,隆起量は房総半島先端で1.8m,三浦半島で1.4mに達した。また,丹沢山付近を中心とする神奈川県中西部一帯は最大80cmの沈降を示した。水平方向へは房総半島,神奈川県一帯の地殻が南東に最大約5m移動した。相模裁の海底で100mに及ぶ昇降があったという報告もあるが,現在の地学の常識からみて考え難いので,測定の誤りではないかといわれている。地震に伴った地殻変動と世界各地の地震計による観測から,この地震を起こした断層の寸法は長さ約100km,幅約50km,ずれは約5m,断層面の破壊は北西から南東へ約2km/sの速度で進行したものとみられている。なお,三浦半島や房総半島南部でいくつかの小断層のずれが地表に現れたが,これらは地震を起こした主断層ではなく,二次的なものと考えられる。

 この地震は北は函館,西は広島まで人体に感じられたが,被害が生じたのは神奈川,東京,千葉,埼玉,山梨,静岡の各府県のほぼ全域と,長野,群馬,栃木の各県の一部である。特に神奈川県,東京府と,千葉県の房総半島南東部,静岡県東部と山梨・埼玉両県の一部では震度6に達した。当時は震度7という階級がなかったが,神奈川県南部,房総半島南東部では家屋の倒壊が30%を超えているので,現行の震度では7となる。地震そのものの規模は最大級ではなかったが,人口密度の高い地域が被災し,特に東京,横浜などで大火災が発生したため,災害は甚大で,死者9万9331人,行方不明4万3476人,家屋全壊12万8266,半壊12万6233,焼失44万7128,流失868を数えた。死者・行方不明の合計は14万2807人,うち東京府で10万7519人,神奈川県で3万3067人,その他の県で2221人である。東京と横浜ではそれぞれ全戸数の70%と60%が焼失した。その他,横須賀,鎌倉,浦賀,厚木,秦野,真鶴などの市・町でも火災が発生した。東京における死者の多くは火災による焼死,水死(火に追われ川に入ったため)であり,特に本所の被服宜跡地では避難していた約4万人のうち3万8000人が,火災による旋風により焼死または窒息死した。家屋の倒壊は神奈川県で多く,全壊家屋の半数以上を同県が占め,小田原,鎌倉などでは全壊率が50%を超えた。東京では本所,浅草,深川,下谷,神田の各区など下町に倒壊家屋が多かったが,木造家屋の全壊率は本所区の13%が最高で,日本橋,京橋,四谷,鵬町,本郷,小石川の各区では1%に満たなかった。また相模湾沿岸は2~10mの大津波に襲われ820戸が流失した。山崩れも多く,特に神奈川県根府川の土石流は大災害を伴った。
 この地震は前震がまったく記録されず,また海岸の昇降など目だった前兆的地殻変動も観測されていない。ただし,地震前の2年間に南関東でM6.0ないし7.0の地震が4回あり,小被害を生じているので,地震活動はやや高まっていたとはいえる。                      宇津 徳治

[震災下の社会状況]  関東大震災による大混乱のなかで起こった諸事件は,その後の日本の歩みに重大な影響を及ぼした。第1次世界大戦で急激に発展した日本では,普選運動,労農運動など民主化を求める民衆運動が広がり,社会主義運動も台頭してきた。前年のワシントン会議を機に軍縮論も高まり,シベリアや中国山東省からの撤兵がおこなわれ,日ソ復交も日程にのぼった。しかし,中国の国権回復運動が広がり,中国,朝鮮の民族解放運動に対するコミンテルンの影響が強まると,軍部や国家主義者は巻返しに出た。政府は前年(1922)に過激社会運動取締法案の制定を企て審議未了となったが,その年7月に結成された日本共産党に対しては,この年5月の早稲田軍教事件をきっかけに第1次検挙をおこなった。民衆運動の台頭に適応して民主化の方向で政治体制の再編成をすすめるか,それとも治安立法を強化して民衆運動にくさびを打ちこむかという二つの方向が競り合っていた。

 大震災は京浜地方を大混乱に巻き込んだ。地震の瞬間に電話は切断され交通機関は破壊され,水道,電気もとまった。東京では大火災が丸ノ内官庁街の一部を含めて下町一帯を焼き払い,3日未明まで燃え続けた。大戦景気で大都市が膨張したのに都市計画が実施されず,木造家屋が密集し,街路も公園も狭く,そのうえ避難民の持ち出した荷物が火を呼び多数の木の橋が燃え落ちたことなどが焼死者を増やした。10万人近い罹災民が上野公園,皇居前広場,日比谷公園等に群がり,ただならぬ状況となった。一方,横浜では全市が壊滅し,幾日間も救援が及ばなかった。

 震災の当日は加藤友三郎首相の死による政変の最中で,水野錬太郎内相らの閣僚が職務をとっていた。彼らは,米騒動や朝鮮三・一独立運動の経験から民衆暴動を恐れていた。陸軍では地震直後に非常警備を開始し,まもなく政府も出兵を請求した。2日になると朝鮮人来襲の流言が急激に広がり,東京市と周囲の5郡に戒厳令の一部が施行された。警察,軍隊は各地に自警団をつくらせ,朝鮮人を狩り立て,大規模な虐殺事件(朝鮮人虐殺事件)を引き起こした。戒厳令施行の直後には第2次山本権兵衛内閣が成立した。3日には戒厳区域が東京府,神奈川県に拡大され,地方師団が続々と到着した。不安におびえる民衆に安心感を与えることで,軍部は勢力盛返しをはかったのである。社会主義者に対する攻撃が強化され,亀戸(かめいど)事件が起こった。朝鮮人暴動がデマと判明したのちには,虐殺事件を正当化するために朝鮮人の暴行事実を極力調査して赤化分子が背後で扇動したと宣伝する方針がとられ,社会主義者が続々と検束された。7日には緊急勅令で〈治安維持の為にする罰則に関する件〉が公布され,言論をきびしく弾圧した。これは過激社会運動取締法案にかわる治安立法としての意味をもち,つぎの臨時議会で事後承認され,治安維持法の露払いとなった。9月中旬には軍隊による直接警備を逐次解除して警察に移す方針がとられたが,そのなかで軍部は中国人の知識青年で社会運動家の王希天殺害事件と無政府主義者大杉栄夫妻らを殺害した甘粕事件とを起こした。これらの事件は報道を禁止され,新聞記者等の活動で逐次これを解除したが,真相は隠された。甘粕事件は曲りなりにも軍法会議にかかったが,亀戸事件は戒厳令下の当然の措置とされ,王希天は行方不明とされ,朝鮮人虐殺事件はごく一部の自警団が裁判にかけられただけで,それらの刑も軽かった。軍隊,警察としての責任は問われることもなく,また世論や民衆の側からの批判や抗議も弱かった。他方で虐殺事件を正当化しようとする宣伝や工作がすすめられ,言論統制も強化された。

 震災後の保守化した風潮のなかで支配層は〈天譴(てんけん)論〉を唱えた。震災は大戦後のぜいたくや自由放縦に対する天罰であり戒めだとしたのである。これをうけて11月10日には国民精神作興詔書が出されて国民の思想統制がすすめられた。11月16日には戒厳令が解除されたが,東京警備司令部がおかれ憲兵隊が大増強された。社会主義運動に対する弾圧もつづき,群馬県や長野県の社会主義青年グループが秘密結社を組織しているなどの理由でつぎつぎに検挙された。震災下の血なまぐさいテロに加えて民衆に白眼視されたことは社会主義運動に衝撃を与えた。翌年2月には日本共産党は解党し,日本労働総同盟も方向転換を宣言する。

[復興と社会の変化]  関東大震災による物的被害は,東京市統計課の推計では1府6県合わせて55億0600余万円に達し,前年度の一般会計予算の3倍半を超える。項目別では商品20億余円,建物18億余円を筆頭に家財,工場,在庫品,電気施設,堤防,道路,橋梁,上水道,船舶,河港,下水道の順で続く。経済活動の停止による損害や救護費は含まない。救護費は国の支出分が2300万円,義援金が国内3700万円,外国2200万円,その他を含め計8500万円で,義援金に大幅にたよっている。政府は経済活動の混乱を防ぐため9月7日に支払猶予令(モラトリアム)を出し,罹災地一帯の金銭債務で9月中に期限の到来するものは,給料賃金や100円以下の預金支払を除いて30日間支払を延期させ,寛大な条件で銀行に融資して営業を再開させた。同27日には震災手形割引損失補償令を出し,9月1日以前に銀行が割り引いた手形を日本銀行に再割引させ,これで日銀が損失をうけた場合は1億円を限度として政府が補償することとした。日銀が再割引した震災手形は4億3000万円にのぼり,その約半数が支払不能となり,これが昭和恐慌の原因となった。火災保険には地震による火災の損害については支払わないとの約款があったが,前例のないことなので保険金支払要求運動が起こり問題化した。そのため政府が援助して小口保険で1割程度の見舞金が翌年5月に支払われた。

 震災直後には遷都論も起こったが,9月12日に帝都復興に関する詔勅が出され,さきに東京市長として8億円の大改造計画を立てた後藤新平内相が40億円の理想的な復興計画案をつくり,これが諸官庁の復旧事業を別にして13億円で横浜市を含めて帝都復興事業をおこなう案となったが,大蔵省で7億円に削られた。ついで開かれた帝都復興審議会では軍備や農村対策を重視する保守派の反対で6ヵ年継続事業5億7000万円に減らされ,さらに臨時議会ではそのうち1億余円が東京,横浜両市の負担とされた。各省の復旧費は7億円であった。こうして復興計画は縮小されたものの,震災前に比べると東京と横浜の道路,公園などが格段に整備された。震災の打撃で下町を基盤とする伝統的な商工業は衰退し,震災後の緊縮財政のもとで資本の集中と大企業による合理化がすすんだ。東京では丸ノ内のオフィス街と山手の郊外住宅地域が急激に発展し,サラリーマンの時代となった。山手環状線とこれにつづく私鉄網が完成し,新宿,渋谷,池袋等の副都心が発展した。京浜南部の臨海埋立地には重化学工業を中心に続々と大工場がつくられ,京浜工業地帯として整備された。しかし団結権や耕作権など勤労民衆の権利は保障されず,サラリーマンの層もうすく,〈大学は出たけれど〉の嘆きとなった。小市民のモダン生活は街頭だけのことで,地域には絶対主義的な国家構造の基礎としての〈イエ〉と〈ムラ〉とが根をはっていた。大都市を中心に大衆文化も発達したが,そこにはかげりがあった。1925年には大衆雑誌《キング》が創刊されたが,色濃く通俗道徳が流しこまれていたし,ラジオ放送も発足したが,それは政府のきびしい監督下におかれた。震災の打撃をうけた新聞界でも,大新聞の制覇と新聞の企業化がすすみ,政治批判の機能は低下した。関東大震災は重苦しい大衆社会の幕あけとなった。                   今井 清一

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文禄・慶長の役
ぶんろくけいちょうのえき

豊臣秀吉が1592‐98年(文禄1‐慶長3)に2度にわたって企てた朝鮮に対する侵略戦争。朝鮮側では〈壬辰・丁酉倭乱〉または〈壬辰倭乱〉とよぶ。

【日本側の状況】
[秀吉の動機と準備過程]  本来,秀吉の意図は明国を服属させること(唐(から)入り)で,朝鮮に対してはその道案内を求めるという〈仮道入明(かどうにゆうみん)〉を標榜していた。秀吉が出兵の意志を公表した事実が確認できるのは,関白任官直後の1585年(天正13)9月であるが,その後,対馬の宗義智(よしとし)に命じて外交交渉にあたらせ,朝鮮国王の来日を求めた。九州征服後には博多を兵站(へいたん)基地化し,蔵米を集中できる体制をとるなど,具体的準備がすすめられた。秀吉が対外的な領土拡張を求めて出兵したことはいうまでもない。国内の封建的統一の達成後,秀吉が家臣に知行地を給付するには,原則として自己の直轄領を割いて与える以外に方法は無く,それには限界があった。諸大名のなかには海外に所領を希望する者もあり,これらの動きを背景にして,国内統一の延長上に朝鮮出兵が企図された。また,16世紀中ごろに勘合貿易が中断されてから,中国産の生糸(白糸(しらいと))はポルトガル船を介して輸入されていたが,秀吉の意図する貿易独占政策は明国との直接取引を求めていた。この動きは領土拡大の要求に裏打ちされていた。また朝鮮出兵の準備過程は,太閤検地の施行過程と対応していた。わずか20年にすぎない豊臣政権の全過程は,一面では朝鮮出兵という対外侵略の論理に貫かれていたといえよう。

 出兵に際しての軍事動員の指令は,1591年9月ごろ秀吉から諸大名に発せられた。諸大名はそれに基づいて,領内で人員,武具,兵粮米,船などを用意して肥前の名護屋に参陣した。これには奥羽の大名まで実際に動員されている。翌92年(文禄1)=文禄の役の陣立書によれば,朝鮮に出兵するのは西国大名が主力で,軍団は地域的にまとめられ,1万~2万人程度のグループを構成している。その中核には織豊取立大名が配置され,旧族大名である外様を実際に動員できるような体制がとられている。諸大名に賦課された軍役は,たとえば九州大名は知行高100石について5人役(本役)のように,石高制に依拠した形をとっている。豊臣政権の軍役体系は,外様大名を含めた全領主階級を包摂して成立しており,ここに封建的ヒエラルヒーの完成した姿を見い出すことができよう。水軍組織としては,九鬼,藤堂,脇坂らの織豊取立大名を主体とする舟手が作られ,人馬や兵粮米の輸送などにたずさわった。軍事編成には,武士階級だけでなく領国内の民衆も動員された。彼等は陣夫役(農民),水主(かこ)役(漁民)として徴発され,諸大名の軍役体系に組み入れられた。諸浦の船も九州に回漕され,釜山~対馬~壱岐~名護屋間の漕送りに利用された。朝鮮出兵は農漁村の生産条件を大きく破壊したのである。

[和議交渉と第2次出兵]  緒戦の勝利で朝鮮の都が陥落した92年5月,秀吉は日本,朝鮮,中国にまたがる国割計画を発表した。後陽成天皇を北京へ移し,その関白に秀次をつけ,日本の帝位は皇子(周仁親王)か皇弟(智仁親王)に継がせ,その関白に羽柴秀保か宇喜多秀家をあてるというものである。これは,大局的判断を欠いた空想的プランにすぎないが,かえって秀吉の構想を積極的に物語っている。
 朝鮮側の対応と合わせて後述されるように,戦局は秀吉の思惑通りには推移しなかった。当時の朝鮮の正規軍は弱体であったが,慶尚道,全羅道を中心とする民衆の義兵組織や,圧倒的な明の援軍の到着によって補給路が絶たれ,渡海した兵員も各地に分散されたうえ一戦ごとに死傷者を出して手薄となっていた。この間,小西行長と沈惟敬(しんいけい)(明の遊撃将軍)との間ですすめられていた和議交渉も,戦局の推移につれて二転,三転した。日本側の条件は出陣諸将の間の思惑の相違からまとまらず,秀吉自身も,当時の国際関係(明帝国を中心とする冊封体制)についての認識に欠けるところがあった。93年(文禄2)6月,秀吉は来日した明の使者に7ヵ条の和平条件を呈示した。ここで秀吉は,明の皇女を天皇の后とし,人質となっている朝鮮皇子を返還することなどのほか,勘合貿易の復活協議と朝鮮八道のうち4道の割譲を求めている。くしくも併記されたこの2条件は,秀吉が出兵の際に企図したことがらであり,国内において,いわゆる武断派・吏僚派諸将の,それぞれの要求を反映するものであった。明側としてはこのような要求に応ずるはずはない。行長と沈惟敬らは秀吉の表文を偽作し,これをもとに秀吉を〈日本国王〉に封ずることとした。ことの次第は96年(慶長1)大坂城での明使引見の際に明るみに出,秀吉は激怒して再征となった。
 97年(慶長2)の再征=慶長の役は,偽りの講和交渉がもたらしたものであるから,出兵を強いられた将兵はもとより,兵粮米を負担せねばならない農民の苦痛は大きかった。中世以来不課の原則がとられて来た田の裏作麦の収穫高の1/3を徴収して兵粮米を確保するという非常手段もとられたが,翌年8月の秀吉の死によって,この法令は撤回された。
 秀吉の死によって,朝鮮出兵という前近代社会でほとんど唯一の対外侵略戦争は,多数の犠牲をもって終りをつげた。豊臣政権は,総力をあげての大動員によって,自己の政権の崩壊を招いたが,みずから確立した幕藩制的支配原理は継承されていくのである。          三鬼 清一郎

【朝鮮側の対応と戦局の推移】
 1592年4月,日本軍は釜山に上陸し壬辰倭乱(文禄の役)が始まるが,日本軍は約半月の間に慶尚道と忠清道の主要都市を,5月初めには漢城(朝鮮の首都,現在のソウル)を,6月には平壌や咸鏡道を占領した。朝鮮国王の宣祖は漢城を放棄して北方へ逃避し,5月初め,一部の反対を押し切って明に救援を要請した。

 緒戦における日本軍の勝因としては,(1)当初,朝鮮の地方長官や軍隊の指揮官の多くが日本軍に抵抗せず,戦争を回避したり逃亡したこと,(2)日本軍は戦国時代を経て戦争になれていたうえ,朝鮮側にない鉄砲(鳥銃)を使用したこと,(3)朝鮮政府の封建的支配に不満を抱く民衆や軍卒の間に,朝鮮の支配層に対する反抗や日本軍への協力(附倭)が現れ,当初,民族的結集に困難が生じたこと,などがあった。しかし海上では,92年5月から李舜臣の率いる朝鮮海軍が活躍し,5月末には亀甲船(きつこうせん)も登場,92年7月の海戦で日本海軍は大敗北をこうむった。以後,日本軍は海上補給路をおびやかされるようになる。他方,陸上でも,92年6月ころから,反撃に転じた朝鮮軍の活動や,郷土防衛に決起した各地の抗日義兵(郭再祐軍など)のゲリラ活動によって,のびきった日本軍の補給線が切断されはじめた。そのため,日本軍は占領地における物資・人員の苛酷な調達を強行し,朝鮮民衆との対立を深めた。それがまた,抗日義兵勢力の拡大につながり,92年7月以降,日本軍はしだいに守戦に立たされることになった。抗日義兵将の大部分は地方の支配者(地方に居住する両班(ヤンバン)。その多くは地主層)であり,彼らは私財を投じて義兵を組織し,日本軍と闘うと同時に,崩壊した地方の支配秩序(階級支配)の維持につとめた。そして,日本軍との対立が深化する中で,多くの民衆が義兵に参加し,義兵の大衆化がすすんでいった。

 他方,明の救援先鋒軍は,92年6月に朝鮮に到着したが,7月の平壌戦で日本軍に敗れると,日本軍(小西行長)と50日間の休戦協定を結び,中国へ引きあげてしまった。その後,93年1月には明の救援主力軍(4万3000人)が朝鮮軍と連合して平壌,開城を奪回したが,明軍は漢城付近の戦闘で大敗すると戦意を失い,講和に期待をかける。また,93年2月には約3万人の日本軍が漢城付近で朝鮮軍に大敗し,そのため小西行長は明軍との講和に期待をかける。こうして日明間の講和が結ばれ,93年8~10月,日本軍は朝鮮南部に約4万人を残して撤兵した。朝鮮政府は徹底抗戦を主張して講和に反対したが,明軍は朝鮮軍の対日戦も禁止した。しかしこの講和は前述のように明軍の沈惟敬・李如松と小西行長が講和条件を偽って明の皇帝と豊臣秀吉に結ばせたもので,その偽りが露見し,97年1月,秀吉の朝鮮再侵略開始となった(丁酉倭乱)。

[再侵略と朝鮮の傷痕]  97年1月,日本軍は朝鮮南部4道の領有をめざして慶尚道から全羅道,忠清道に侵入したが,朝鮮軍と明軍の反撃を受け,97年9月からは守戦に立った。98年3月以降は日本軍の守城(倭城)が次々と撃破され,敗北は決定的となった。そして秀吉の死を契機に98年10月,朝鮮から撤兵を開始したが,日本軍は李舜臣ら朝鮮海軍の追撃をうけ,同年11月,ようやく撤退を完了した。こうして日本の侵略は失敗に終わった。

 前後6年余にわたる日本の侵略は,朝鮮に莫大な被害を与えた。耕地は約3分の1に減少し,日本軍による虐殺や,家を焼かれ流亡する中での餓死者・病没者の続出によって,人口も大幅に減少した。日本に強制連行された朝鮮人も5万~6万人に達したが,その中には陶工も含まれ,唐津焼,醍摩焼などは彼らによって始められた。また,朝鮮儒学の成果を日本に伝えた姜絞(きようこう)のような学者もいた。さらに多くの文化財(慶州の仏国寺,漢城の景福宮などの建築物や美術品,書籍など)が戦火で焼かれ,医学,朱子学などの朝鮮本や銅活字なども大量に日本に奪われた。

 しかし,壬辰倭乱によって朝鮮社会が衰退したとみることは正しくない。戦後に実施された大同法(画期的な税制改革)は戦争中から進んでいたし,奴婢文書を焼きすてるなどの身分解放をめざす奴婢の闘争も進展していた。戦争が中断された94‐96年には,朝鮮政府の封建的支配に対し,新興勢力を中心とする民衆の闘争が激化した。そうした中で身分制の弛緩,商品経済や農奴制などが進展した。崩壊過程にあった明は,壬辰倭乱に対する戦費負担などで崩壊過程がいっそう促進されて1644年に滅亡し,日本では侵略戦争の失敗が豊臣政権の崩壊を促進した。一方,朝鮮では多くの曲折を経ながらも李朝を存続させた。それは,壬辰倭乱に勝利し,また,すでに1565年に新進官僚による士林派政権が成立し,社会の新しい動向に適応する体制がともかくもできていたことによる。だが,この戦争が朝鮮に深い傷痕を残したことも事実であり,近代以降今に至るまで,壬辰倭乱は日本の侵略に対する憎しみ,警鐘の原点となり,李舜臣をはじめ,義僧軍を率いた休静(西山大師)や日本軍の武将をかき抱いて身を投じた義妓論介などは民族的抵抗のシンボルとなっている。なお,柳成竜《懲抗録(ちようひろく)》はこの戦争の過程を詳述し,後世への戒めとした書である。

 室町時代以来の日朝間の善隣関係は,この戦争で断絶するが,その後江戸幕府は国交回復につとめ,1607年に復交し(朝鮮通信使の受入れ。当初は,日本に拉致された朝鮮人の〈刷還〉を名目としたため,回答兼刷還使と称した),09年には日朝通商条約(己酉約条)を結んだ。  矢沢 康祐

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2019年12月6日金曜日

[その他] マンション管理員 巡回7つ道具


現在マンションの管理員の仕事をしています。

所属する会社、勤務場所のマンションによって仕事の内容には相違がありますが、現在当方の所属する会社、勤務場所のマンションではマンションの敷地、建物を掃除をしながら巡回する「巡回拾い掃き」という作業を概ね9時と16時の2回行っています。

最低限ちりとりと庭ホウキをもって巡回しますが、途中で鳥のフンがあったり、ガムが落ちていたりすると、そのためにまた管理員室まで戻らないといけないので、大工さんが使う腰袋にちょっとした小道具を入れて巡回するようになりました。

写真は実際に当方が使っている腰袋で「7つ道具」とありますが、結構増えましたね。


①大型のクリップ(後述する掃除棒を庭ホウキに挟んで天井のクモの卵を取るのに使います)

②アルカリ洗剤(化粧用のスプレーに入れてます)

③マイクロファイバークロス(コストコで売っている自動車用のクロスを半分に切ったもの、水で湿らせています)

④歯ブラシ(サッシのスミ等の細かいところの汚れ落とし、洗剤と併用する場合もあります)

⑤ケレン細(ガム落としや、隙間に生えている雑草を取ったりします)

⑥ケレン(⑤と一緒ですがちょっと広い面積に使います、写真のは角が擦り切れて丸くなってますね)

⑦掃除棒(割り箸をビニールテープで巻いたもので、タオルと併用してエレベーターの溝などの掃除、クモの巣、卵とりに使います、傷がつかないので便利)

⑧真鍮ブラシ(廊下、アスファルト面の汚れ落としに使います)

⑨刷毛(側溝のゴミ、階段のスミのゴミとり、等庭ホウキが入らない細かい場所のほこり取りに使います)

庭ホウキは長柄、短柄、の長さ、ホウキが化繊・黒シダ・赤シダ、とかなり種類がありますが、当方は山崎産業のブルロン庭ホウキを使っています。外掃きにはちょうど良い腰の強さですね。


チリトリは取っ手付きのアズマのを使っています。金属製の方が直立しやすいのですが、音がうるさいのでプラスチック製です。


俗に「文化チリトリ」という種類で、略して「ブンチリ」と呼ばれます。

枯れ葉などが多い物件では大型の鉄道チリトリを使っているかも知れません。こちらは略して「テッチリ」。








こちらはロックバンドのレッドホットチリペッパーズの皆さん。略して「レッチリ」。





[積読立読斜読]『巨大なラジオ/泳ぐ人』(ジョン・チーヴァー著、村上春樹訳、新潮社、2018年)より「愛の幾何学 The Geometry of Love」


もうちょっと時代が下ればパーソナルコンピューターで解析できたかもしれません。

「愛の幾何学 The Geometry of Love」は1966年の作品で『サタデー・イブニング・ポスト』掲載。チーヴァーが常連だった『ニューヨーカー』は掲載を見合わせました。チーヴァー定番の「アッパーミドルクラスからの転落もしくは転落の危機を諧謔をもって描く」手法は取られておらず、一風変わった作品になっています。

主人公は計算尺(なつかしい?)を使って人生の諸問題の解決を試みようとする男。実生活ではアルコール依存症となり夫婦仲は険悪だったという解説で、そのせいか結末はちょっと暗すぎる感じがしました。



ベトナム戦争への本格介入が始まっており世相を反映しているのかも知れません。

P248
  空はまだどんより曇って、雨が降っていた。しかしまだ日は暮れていない。車通りは多くなかった。眼下の道路をステーション・ワゴンが一台通り過ぎていった。それからコンバーディブルが、搬送ヴァンが、そして「ユークリッド・ドライクリーニング及び染色店」という名前の書かれた小型トラックが通り過ぎていった。その偉大な先人の名前は彼に直角三角形を、幾何学のいくつかの解析法を、有理数と無理数の両方についての比例理論を思い出させた。彼が必要としているのは、新しい推論のフォームだった。ユークリッドでもいいんじゃないか。もし自分が抱える問題についての幾何学的解析ができたなら、それを解決することができるのではないか?
  彼は計算尺を手に取り、単純な定理を取り上げてみた。もし三角形の二辺の長さが等しければ、向かい合う二つの角度も等しい。また逆向きの定理として、三角形の二つの角度が等しければ、向かい合う二つの辺の長さも等しい。彼はマティルダと、彼女に関することで意味があると考えられるものを表す一本の線を引いた。三角形の底辺は二人の子供ということになるだろう。ランディーとプリシラ。そして言うまでもなく彼が第三の辺になる。マティルダの線における最も危うい要素は―つまり彼女の角度がランディーとプリシラの角度と等しくなることを脅かしているのは―彼女が最近になって「仮想の恋人」をこしらえたという事実にある。

あと短編三作品で長くかかりましたが村上春樹訳のチーヴァー短編集を読了。一編一編丁寧に読んでいったので堪能できました。




2019年12月5日木曜日

[惹句どんどん] ウディ・アレン引用句集 011


braille:点字

Fielding Mellish: I once stole a pornographic book that was printed in braille. I used to rub the dirty parts.

"Bananas"はウディ・アレンの1971年の作品。

冴えない検品係のフィールディング・メリッシュは、学生活動家の恋人と別れ、傷心を癒すためバナナの国サンマルコス共和国(架空の国、キューバを連想)に旅をする。そこで革命に巻き込まれ、なぜか国のリーダーに祭り上げられるというコメディです。

解説によるとギャクに次ぐギャクの連続で、グルーチョ・マルクス、ボブ・ホープの影響が大きいそうです。

50年前の作品なので今観ると冗長かも知れません。未見です。

[その他] ちょっと気の早いクリスマス・プレゼント LEGO版のピタゴラスイッチ




必要があって近所の大型書店に出かけたらレゴ・ブロック付きの本の帯(ベストセラー第1位)につられて購入。要するにレゴを使った「ピタゴラ・スイッチ」です。

本日は1ページ目の作品を作りました。紐を結んだりするので老眼にはつらい作業もありました。いろいろ調整してなんとか成功しました。(紐付きのタイヤが棒の周りをまわって2本のシーソーを倒し、ボールを押し出す装置)。

5歳になる孫のT君向け。男の子は可動するものが好きなのか、結構熱心に何回も遊んでいました。


[その他] 本日の夕食は「ポークソテーアップルソース」でした



①りんごは皮付きのまま縦4等分に切って芯をとり、1cmの角切りにする。
②フライパンにバターを溶かしりんごを入れ、弱火でしんなりするまで炒める。砂糖を入れて全体にからめ、さらに白ワインを振り入れる。そこへ分量の水と固形スープのもと、塩・胡椒少々を加えて少し煮詰める。

焦がさないように火加減をうまく調整する必要がありました。このソースが大変美味。



行きつけの食品スーパー、マックスバリュの店頭にあったレシピ「ポークソテーアップルソース」が美味しそうだったので挑戦してみました。

アップルのソースだけで300円以上かかりましたが、大変美味でした。


2019年12月4日水曜日

[惹句どんどん] ブレイディみかこ(作家)


「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどうくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」

「うん。どうしてこんなにややこしいんだろう。小学校のときは、外国人の両親がいる子がたくさんいたけど、こんな面倒なことにはならなかったもん」

「それは、カトリック校の子たちは、国籍や民族性は違っても、家庭環境は似ていたからだよ。みんなお父さんとお母さんがいて、フリー・ミール制度なんて使っている子いなかったでしょ。でもいまあんたが通っている中学校には、国籍や民族性とは違う軸でも多様性がある」

「でも、多様性っていいことなんでしょ!学校でそう教わったけど?」

「うん」

「じゃあ、どうして多様性があるとややこしくなるの」

「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」

「楽じゃないものが、どうしていいの?」

「楽ばっかりしていると、無知になるから」とわたしが答えると、「また無知の問題か」と息子が言った。以前、息子が道端でレイシズム的な罵倒を受けたときにも、そういうことをする人々は無知なのだとわたしが言ったからだ。

「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどうくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」

 わたしがそう言うと、息子はわかったのかわからなかったのか判然としない面持ちで、おやつのチーズをむしゃむしゃ食べていた。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ著、新潮社、2019年)

[晴れときどき英語のお勉強] 『「とりあえず」は英語でなんと言う?』より 達成感の「やった!」の表現


やった! 成功したときのさまざまなフレーズ

① I did it! / We did it!
やった!

②Great! / Brilliant! (英) / Amazing!
やった!

③Yes! / YeaH! / Hell yeah!
最高の気分!

④Nailed it!
やった!(完成度が高いときに使う)

⑤Oh my God! I won the lottery again ! I can't believe it.
やった!また宝くじに当たった!信じられない。

⑥Oh my God! Are you okay?
やばい!大丈夫ですか?

⑦Yee-haw!
やった!(カウボーイが使う)

⑧THank God! I didin't think I wonder finish it today.
やった!今日は終わらないと思ったよ。

①は何かを成し遂げた時の「やった!」。

②は成功して喜びを表現したいとき。

③はhellをつけると強調になる。

④はスラング。

⑤⑥ oh my God は良い意味・悪い意味、両方使える。

⑧安堵感を表す「やった」は thank god が使える。


アメリカのテレビドラマ"HEROS"(NBC、2006~2010年)に出てくる日系人ヒロの決め言葉が日本語の「やったあ!」で(字幕では"I did it!")日本語でも通じるかもしれませんと本書。

2019年12月3日火曜日

[その他] ふらんすへ行きたしと思へども




なぜか知人が続々とヨーロッパ旅行をしている配偶者が、フランスのモンサンミッシェルに行きたいそうで同伴を依頼されました。時期は未定です。当方はもともとが出不精であまり旅が好きではありません。特に団体旅行が苦手です。

ネットで格安のツアーを探してみると、「エコ・パリ5 ターキッシュエアラインズ お気軽パリ5日間スペシル(食事なし)」が2泊5日で59、500円(1月13日出発)というのがあったので、これを推薦すると、少なくとも30万円ぐらいかけないと良い旅とは言えないという意見で、それもそうかなと思案中。

この格安ツアーは機中泊が2日、パリ滞在は1日半というものです。モンサンミッシェルにはレンタカーで行こうと思っています。

格安ツアーは、朔太郎の新調した背広より安いかも。

※写真はJTBのパリ・モンサンミッシェル・ツアーです。やはり30万円程度します。



旅上

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。

汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。

純情小曲集(萩原朔太郎、大正14年発表)


2019年12月2日月曜日

[積読立読斜読] 『ペンギン・ブックスが選んだ日本の名短編29』(ジェイ・ルービン選、村上春樹序文、2019年新潮社)より 三島由紀夫「憂国」


2日続けて『ペンギン・ブックスが選んだ日本の名短編29』を読んでます。本日は三島由紀夫の「憂国」。(29編とありますがどう数えても28しかありません)。

「憂国」は森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」と同じ「忠実なる戦士」に纏められています(この二編のみ)。いずれも切腹を扱った小説です。

「憂国」は1961年の作品。二・二六事件に際し叛乱軍の青年将校から蹶起に誘われず、逆にかつての仲間を討伐しなければならない立場になった新婚の中尉夫婦の自決を克明に描いています。

中尉は享年三十、婦人は二十三で、結婚後半年で自決という設定です。

三島由紀夫の絢爛たる美文で、新婚夫婦の性と、自決の苦悩が混然一体となった喜びに昇華していくまで後押しは、中尉の遺書に一句のみ書かれていた「皇軍万歳」という意識なのでしょう。ここまでの純化を眼前に出されると、政党名に「維新」と軽々しく使ってはいけないのじゃないかと改めて感じました。

村上春樹さんは序文でこの作品が「この作品の描く世界の美しさに惹かれる読者もおられるだろうし、ただ嫌悪感を催すしかないという読者もおられるだろう。しかしその是非はともかく、ここに描かれたひとつの想念の徹底した純化ぶりに、文学として評価すべきものがあることは認めないわけにはいかないはずだ。」として作品は認めつつも、執筆から9年後の三島由紀夫自身の割腹自殺については「ひとつの想念を文学として純化させることと、想念を行為として純化させることのあいだには、きわめて大きな違いがある」と否定的です。



追記:芥川龍之介が2編あり、たしかに29編あります。



[積読立読斜読] 『ペンギン・ブックスが選んだ日本の名短編29』(ジェイ・ルービン選、村上春樹序文、2019年新潮社)より 森鴎外「興津弥五右衛門の遺書」


スミマセン、小説好きなもので。

この本はちょっと一風変わった経緯の短編集です。村上春樹さんの英語版訳者として著名な米ハーバード大名誉教授ジェイ・ルービン氏(1941年生)がイギリスのペンギン・グループからの依頼で、日本の短編小説をペンギンブックスとして出版されたものです。イギリス版は当然英訳されたものですが、この新潮社版はオリジナルの日本語の短編集です(まあ当然ですが)。ルービン氏の取捨選択の基準はあまり明らかにされておりませんが、巻頭で村上春樹さんによる解説がつけられています。

新潮社版はペンギンブックスをすぐに想像させる品のあるオレンジ色の装幀。本国のイギリス版は田園を走るディーゼル機関車(おそらく福島県を想定しているものと思われます)。短編小説を通じて英語圏の人がどう日本を理解しているのか興味があるところです。

例によって超スローリーディング。短編一編ずつ投稿していきます。なんとか年内読了目標。

今回は森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」を読みました。三島由紀夫の「憂国」が同じカテゴリーで「忠実なる戦士 Loyal Warriors」として採用されています。いずれも殉死(切腹)を扱ったものです。なかなか外国の方には理解されにくい日本の武人の習慣ですが、現代日本人にももう理解できないところかも知れません。

「興津弥五右衛門の遺書」は1912年の乃木将軍夫妻の殉死に衝撃を受けて書いた歴史小説です。漢字の多い候文になってます。

三島の「憂国」は二・二六事件の外伝的な作品で1961年の発表。現代文です。この2作品を英訳した場合にどう差異をつけるのかが興味深いところではあります。





2019年12月1日日曜日

[惹句どんどん] タモリ


初期の頃のタモリのレコード。『戦後日本歌謡史』。

加山雄三さんのパロディーです。


師走だなあ。
ぼかぁ12月になるといつも師走なんだ。
いいだろう。