単行本は2007年、光人社刊行。中学生の頃、当時の少年の通過儀礼としてプラモデルに凝ってましたが第二次世界大戦中の日本海軍の飛行艇「二式大艇」を作ったことがあります。仕事などでよく行く呉にあった日本海軍の直営工場・広海軍工廠では海軍の飛行艇も作っておりアニメ映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』では片渕須直監督の執念の時代考証で空襲被害から逃れた飛行艇が描かれています。映画では主人公すずさんの義理のお父さんの勤務先になっていました。
というわけで飛行艇には前々から興味がありました。前置きが長くなりましたが、文庫版の精密なイラストの表紙に惹かれて購入。
・大型の水上機を飛行艇、小型のを水上機と呼ぶ
・軍用としては現在使われていない
・真珠湾攻撃にも参加していた
・映画『紅の豚』の水上機は実際に運用されていたもの
・大艦隊同士の直接対決での勝利に固執した日本海軍の硬直した戦略から「大和」「飛行艇」を生んだ?
・第二次世界大戦中の日本の水上機・飛行艇の性能は世界のトップレベル
YouTubeで偶然見つけたのですが、イランには奇怪な小型の水上機(空は飛べないそうです)Bavar2という軍用機があるそうです。「表面効果翼機」という水上機だそうです。
民間では飛行場の建設が困難な地域や、観光用としては現役だそうです。
<書籍の説明>
内容説明
戦後もなお継承され、対潜哨戒飛行艇を生んだハイレベルな航空技術力―膨大な資料、写真、図面、データにより解明する超大型機の詳細!大海原上空を長時間飛翔して任務を遂行した巨人機たちの実力を明らかにする決定版。カラー口絵、精密四面図、詳細解剖図入り。
目次
第1章 世界の飛行艇興亡史
第2章 日本海軍飛行艇の系譜
第3章 九六式水偵、九七式飛行艇、二式飛行艇の機体構造(九六式水上偵察機;九七式飛行艇;二式飛行艇;二式飛行艇の機体細部写真集)
第4章 日本海軍飛行艇の塗装とマーキング/使用部隊慨史
著者等紹介
野原茂[ノハラシゲル]
1948年、栃木県生まれ。1978年以降、フリーの航空機イラストレーターとして、雑誌、単行本を中心に活動。仕事の対象は大戦中の日、独、米、英機が主だが、
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784769813637
紀伊國屋書店のサイトより
飛行艇
ひこうてい flying boat
水上に発着する飛行機のうちで,胴体を直接水につけて浮くもの。飛行艇の胴体は艇体と呼ばれ,水密構造に作られていて,下面はモーターボートの底と似た形をしている。これで水上を滑走して離水や着水をする。その際に上がる水しぶきからエンジンや翼を保護するため,主翼を高翼式に艇体の上に取り付け,尾翼も高い位置に置き,艇体は陸上機の胴体に比べると高さが高いのが外観上の特色となっている。また水上で横に倒れるのを防ぐため,翼端近くに補助フロート(小型の舟形のうき)をつけたものが多い。
飛行艇は1912年アメリカのカーティス GlennCurtiss(1873‐1930)によって初めて作られ,第1次世界大戦から第2次大戦にかけては,各国の海軍や民間で,海上億戒や海上航空輸送に盛んに使われた。これは当時は今のような長い滑走路をもつ飛行場がなかったため,積荷と長距離飛行に必要な多量の燃料を積んだ重い機体を出発させるには,長い滑走のできる水面が各地に得られる飛行艇が有利であったことと,飛行中にエンジン故障などで不時着する場合の安心感などが理由であった。とくに1930年代は飛行艇の黄金時代で,プロペラ式4発・数十席・全幅40m程度の大型飛行艇により,北アメリカ~アジア間の太平洋横断,北アメリカ~ヨーロッパ,ヨーロッパ~南アメリカ間の大西洋横断などの,郵便や旅客の定期航空便が開設された。しかし第2次大戦中に大型陸上長距離機が発達し,世界各地の飛行場も整備されるに伴い,飛行艇は陸上機に比べ,空気抵抗が大きく,水上での取扱いや整備に手間がかかり,海水による腐食もあることなどで不利となり,戦後は陸上機に地位を譲った。今日,飛行艇は少数機が水上に発着できる特性を活かして,海上救難や億戒,空港のない離島への輸送,山林火災の消火(水面を滑走して水を機内に取り入れ,火災上空から投下)などに使われている。⇒水上機
久世 紳二
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水上機
すいじょうき hydroplane∥seaplane
水上に発着するように作られた飛行機。ふつうの飛行機(陸上機)と違って車輪式の着陸装置がなく,代りにフロート float と呼ぶ舟形の浮きを機体の下につけていて,これで水に浮き,水上を滑走して離水や着水をする。胴体がフロートを兼ね,舟形の艇体となっているものは,ふつう飛行艇と呼んで水上機とは区別する。また水上機や飛行艇に車輪式の着陸装置をつけ,水上にも陸上にも発着できるようにしたものは水陸両用機と呼ばれる。水上機は整備された飛行場がなくても,海,湖,川など一定の面積をもつ水面さえあれば運用できるので,第2次世界大戦までは各国の海軍や民間で盛んに使われた。陸上機に比べフロートの空気抵抗が大きく不利なので,各地に飛行場が整った現在では,陸上機に比べその数は少なくなっているが,カナダ北部など地上交通が不便で湖や川の多い地方では,主要交通機関としてもっぱら利用されている。 久世 紳二
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ワシントン体制
ワシントンたいせい
第1次世界大戦後,西方におけるベルサイユ体制と対応し,東アジア・太平洋地域に樹立された国際秩序。ワシントン会議(1921年11月~22年2月)で成立した諸条約・決議を基礎としたのでこの名がある。
[背景] 第1次大戦は東アジア国際関係に大きな変化をもたらし,とくに日本の大陸進出は著しかった。戦後,日本がこの地歩を維持しようとする一方で,ヨーロッパ列強は勢力回復をめざし,戦勝国の一員となった中国は民族自決主義の台頭に力づけられて,大戦中日本に対して失った権益を回復しようとし,またアメリカは門戸開放政策を中心とする新秩序を,東アジアに樹立しようとしていた。以上の対立と並行して,列国とくに日米間には大戦末期以来海軍軍拡競争が進行中であり,各国の戦後復興にとって大きな負担となっていた。ここに W. G. ハーディング・アメリカ大統領は,軍備制限と東アジア・太平洋問題のための国際会議を提唱し,日本,アメリカ,イギリス,フランス,イタリア,ベルギー,オランダ,ポルトガル,中国の9ヵ国が参加することとなった。アメリカは,日本の中国進出の一支柱であった日英同盟が1921年に満期となることに着目し,これを終了させて新たな列国関係をつくり出すことを意図して,会議を提唱したのであった。
[日本の対応] 以上の背景から,日本では会議が日本封じ込めの性格をもつことをおそれる者が少なくなかった。しかし同盟国イギリスがかつての力を失って対米傾斜を強め,協約国ロシアをロシア革命で失っていた日本にとって,対米協調以外に外交的孤立を避ける道はなかった。しかも日本経済にとってアメリカとの貿易・資本関係は不可欠であった。ここに戦前からの対米協調論者であった原敬首相は,戦後の反軍国主義世論を背景に,可能な限り対米協調を貫く方針を樹立した。海軍大臣加藤友三郎,貴族院議長徳川家達,駐米大使幣原喜重郎の全権も,この方針で選ばれたものであった。原は会議直前に暗殺されたが,原の方針は続く高橋是清内閣にも引き継がれた。
[会議の成果] 軍備問題では,会議議長 C.E. ヒューズ・アメリカ国務長官の提案を基礎に,主力艦について10年間建造を中止し,既存艦の一部を廃棄し,保有総トン数の上限をアメリカとイギリス52万5000トン(5),日本31万5000トン(3),フランスとイタリア17万5000トン(1.67)に定めることを骨子とする海軍軍備制限五ヵ国条約が結ばれた。日本海軍の中には日米戦に備えて対米7割が不可欠であるとの意見が強かったが,加藤全権は日本の国力からみて対米戦は不可能と考え,これを抑えた。もっとも条約中には西太平洋での海軍基地増強禁止の規定があり,補助艦数制限の欠如とあいまって同地域での日本海軍の優位を高めた面もあり,条約は必ずしも日本にとって不利なものではなかった。
東アジア・太平洋問題については,太平洋に関する四ヵ国条約と中国に関する九ヵ国条約がおもな成果であった。前者によって日英同盟の終了,日米英仏協調体制の樹立が約され,また後者によって,軍事力を背景とする〈旧外交〉から,門戸開放政策を中心とする平和的経済主義的〈新外交〉への転換が約された。これに対応して日本は,山東権益を中国に返還し,満蒙借款における優先権等の放棄・二十一ヵ条要求中留保項目の放棄・シベリアからの撤兵を声明し,またアメリカが中国における日本の特殊地位を承認した石井=ランシング協定を廃棄することとした。しかしここでも,日本が最重視した満蒙権益の主要部分については暗黙の支持を与えるなど,アメリカは予想外に妥協的であった。つまりアメリカは対日抑制だけではなく,日本を含む列国協調体制の樹立を重視していたのであり,アメリカのこの態度と,日本における対米協調・平和的経済主義的外交論者の政治指導とが,ワシントン体制を可能としたのであった。
[崩壊] ワシントン体制は確かに東アジアと太平洋に新時代を画した。しかしそれは,在華外国権益の存在を前提とし,また中国と深い関係をもつソ連の参加を排除してつくられたものであった。つまり中国ナショナリズムもソ連も弱体であることが,その成立条件であった。しかし1920年代末には,中国国民党は中国統一を完成して国権回収を主張し,またソ連は政治的軍事的に無視しえぬ力となっていた。満蒙を対ソ国防上の〈生命線〉とみていた日本陸軍は,ここに,対米英協調から離脱してでも満蒙権益を擁護・強化すべきだとの主張を打ち出す。海軍においても,軍備制限条約以来補助艦建造に力を入れてきたことから,1930年ロンドン軍縮会議の補助艦制限に大きな不満をもち(統帥権干犯問題),ワシントン体制からの離脱を主張する勢力が力を増した。こうした背景に,日本は31年満州事変を引き起こし,さらに満州国建国・承認(1932),国際連盟脱退(1933),ワシントン海軍軍備制限条約廃棄通告(1934)によって,ワシントン体制を崩壊させたのである。 北岡 伸一
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