2024年2月17日土曜日

[その他] 東広島市立美術館「美は暮らしのなかにある 民藝」展に行きました

 2月17日(土曜日)東広島で夢拾いに参加したあと、東広島市立美術館で開催中の「美は暮らしのなかにある 民藝」展に行きました。昔から芹澤圭介さんの染色が好きだったので興味が湧きました。

名もなき人々によって長い年月をかけて完成した日用品には「実用の美」があり、物の少ない時代だったからこそ、数は少なくとも長く使える物を使っていたのでしょう。






芹沢葱介  1895‐1984(明治28‐昭和59)
せりざわけいすけ 

染色工芸家。静岡市生れ。1916年東京高等工業学校図案科を卒業。昭和に入って柳宗悦と親交を重ね,35年ころから民芸運動に参加,再三沖縄を訪れて紅型や赤絵を研究し,その手法をとり入れて型絵染を創始した。芹沢の型絵染は量産のための型染を超えて,型の表裏の利用,繰返しなどによって卓抜した意匠が構成される。また日本民芸館の家具設計,大原美術館の内外装,家具設計,装丁,版画など,その活動は多岐にわたり,民芸蒐集家としても知られる。第2次大戦後は多摩美術大学,女子美術大学などで後進の育成に当たり,58年型絵染技法による重要無形文化財保持者の指定をうけた。大原美術館芹沢館,静岡市の市立芹沢葱介美術館に多くの作品が集められている。                 伊藤 敏子

(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.

民芸  
みんげい 

〈民芸〉という言葉は大正時代末に初めて用いられた新造語である。外国語でこれにあたる言葉がないので,フォーク・クラフト folk‐craft という言い方も日本で用い始められたのである。もっとも西洋にはフォーク・アート folk‐art とか,ポピュラー・アート popular‐art とかいう言葉は用いられているが,近ごろはピープルズ・アート people’s art という言い方も現れ始めた。アートは〈美術〉にも用いられるが,民芸という場合は,美術品ではなく民衆的工芸をさすので,西洋の用語と多少違う。
 工芸というのは実用的な生活的なもので,他の美術のように鑑賞を目的としたものではない。それゆえ工芸の美しさは〈用に即した美〉ということにその特性がある。日本で民芸という場合,この実用性を重要視するから,西洋でいうフォーク・アートやポピュラー・アートとはおのずから内容の違いが生じる。われわれ民芸運動にしたがっている者がアートという字を避けたのは,アートが主として美術品をさし,とかく個人的作品を意味するのに対し,〈民芸〉は非個人性を特色とするのであって,この無銘性にこそ,われわれは大きな価値を認めだしたのである。西洋でのものの考え方は個人中心に傾きやすく,在銘品を偏重する傾向が強いために,どうしてもアート,すなわち美術という文字を用いたがるのであろう。それゆえ内容的には,日本でいう民芸も,西洋でいうフォーク・アートも近似しているのだが,価値認識のうえからはたいへん違うのである。日本では民芸にみられる非個人性や無銘性に価値をおくが,西洋ではこの面の認識が遅れているのである。それというのも,個人中心の文化で,在銘品を尊ぶ習慣が濃いからである。もっとも日本でとくに無銘の民芸品の価値が西洋に先んじて重くみられるにいたったのは,歴史的背景がある。第1は茶の湯で,茶の湯では用器を尊び,そのうちの名器はほとんどいっさい無銘品であったのである。第2は日本は歴史が古く,したがって伝統が根強く残り,今も各地にすぐれた民芸品が数多く残る。ヨーロッパの事情は日本に比べるならはなはだ悪い。しかし民芸は過去の伝統品ばかりにみられるわけではなく,新しい時代に正しい健康な実用品,すなわち新民芸の伝統が栄えなくてはならない。この意味で民芸の必要は世界的要請だといえる。
 そこで各国の美術館では,在来のいわゆる大美術品の展観ばかりでなく,しだいに民俗的な作品や,未開民族の作品などが展示される傾向が強くなってきた。特に北ヨーロッパの諸国は野外美術館の施設が盛んで,世界のさきがけをなしたが,そこに展示されているものは必然に民衆的作品が主体になる。ただしどちらかというと,集められている品々は民俗学的興味が主で,美的価値の認識による選択ではない。東京にある日本民芸館はこの点,世界のさきがけをなすもので,民衆の日常生活に交わったもろもろの無銘品の美しさをみつめて,そのまま,質のうえから取捨選択を施してある。こうした美術館は他にまだ例がない。なぜ日本からこういう動きが生まれたか,それは茶の湯につちかわれた〈日本の目〉が働いたからで,おそらく個人主義的な論理的なヨーロッパではそう簡単にはいかないであろう。つまり民芸の美への認識には直観が何より先行しなければならない。ヨーロッパは理論的であるから,民俗学の対象としての民衆作品が,ひとしお注意されているのである。民俗学と民芸学とが著しく違う点は,民俗学が経験学なのに対し,民芸学は価値学たらんとする点にある。ところが後者にはどうしても直観的基礎がいる。ここで日本の目(考える頭脳よりも,見る目)が大いにものをいって,民芸品の価値がどこよりも早く,また深く認められだしたのである。しかし世界の動静をみると,民芸美学はしだいに広められるであろう。そうして〈用と美との関係〉〈民と美との結縁〉〈無銘品の価値〉(すなわち非個人性の意義)などは今後好個の題材として論じられるであろう。ただし〈抽象論〉よりも〈具象論〉のほうが先に現れないと,種々の誤りが起こりやすい。さいわいにも日本の民芸品の物としての値うちは,ようやく海外に認められ,その輸出額は年々増大しつつあるのである。また近ごろ東京の各百貨店で競ってヨーロッパの実用工芸品を輸入し展示する傾向もはなはだ興味深い。そうしてその多くが相互的に交換展の形をとっているのも留意されてよい。
 さて,民芸品の特色であるが,実用性とか無銘性のほかに,民衆性や民族性や固有性もその特色に数えられるべきで,しかもその健康性や尋常性も大いに見直されてよい。とかく近代文化は異常な変態なものに流れやすく,各国ともしだいに固有性を失いつつあり,ここに民芸への要求が起こる原因もあろう。
 興味深いことは,民芸品は国民性が一方に強いが世界的共通性も強く,一種の世界語的性質をもち,これを通して各国が互いに理解し交友し合える特質をもっているのである。民芸品には東西があるままに,東西のないものがある。ここに大いにその社会的値うちがあろう。
 次に民芸の〈民〉であるが,今日は民主主義が台頭し,社会主義諸国でも大衆の位置を重くみるにいたった。しかし今日まではとかくしいたげられた民衆への擁護という意味が強く,平民たるそのことへの積極的価値認識が不思議に遅れているように思うが,民芸美学は民衆性そのものの意義を認めるのであって,しいたげられたものへの弁護ではない。むしろ,けっしてしいたげられない自由性が〈平の者〉たる〈民〉にこそあることを知らせようとするのである。逆にいえば,力の圧制者にはかえって心の自由がまったく乏しいことを裏書きするものが貴族品であるといいたいのである。民芸品はけっして貴族品への反律として価値があるのではなく,それ自身のもつ自由性においてたたえられるべきであるというのが,日本における民芸論の強調する点なのである。資本家を倒して,民衆を立てようとするのではなく,民衆それ自身の本来の面目に輝きをみるのである。こうした意味でも,日本における民芸運動ははなはだ特色あるものといえよう。かつては共産主義者から,封建時代・搾取時代の過去の民芸品などなんの値うちがあろうか,といわれた。しかし民衆の心にはしいたげられても失われない自由があるということを留意したいのである。また,かつては朝鮮人から,無銘の民の手になった作品になんの値うちがあるのか,そんなもので朝鮮の美を語られては困る,と抗議をうけた。しかし凡夫にして,なおかつこんな自由な美を生みうることを誇りとすべきだと思うのである。また,ある人から,井戸茶碗を雑器というが,作者の審美眼を疑うのか,という詰問をうけた。審美眼などにとらわれていない自由が井戸の美を生んだのであるというのがその答えである。以上三つの抗議は,平の民衆をはじめからつまらぬ者と思うか,あるいは美は偉大な天才だけのものだという考えに定着しているのである。そうでなく民芸美の示唆するところは,平凡な平の民衆そのものの値うちなのである。法然は〈一文不知〉の者をかえってたたえたが,大いに理があろう。                   柳 宗悦
[民芸運動]  日本の民芸運動は,柳宗悦(やなぎむねよし)によって〈民芸〉という言葉とともにはじめられ,彼を中心とする同志的結合による活動によって発展した。白樺派の創始者の一人であった柳宗悦は,生活と深い結びつきのある工芸の世界へと情熱を向け,民衆の日常生活のなかに厳然と生きている美の世界,すなわち民衆の工芸のうちに工芸そのものの真の姿のあることを強く提唱した。その第一歩として,1926年河井寛次郎や浜田庄司とはかり,すでに集められていた民芸品を公に展示すべく〈日本民芸美術館設立趣旨〉を発表するとともに,その理論づけとして《工芸の道》を刊行した。その後正しい民芸の意義づけが,地方的な風土や伝統の問題からも論じられるようになり,31年には月刊雑誌《工芸》を発刊,各地の民芸品の紹介が活発におこなわれ,それをもとに,さらに地方の伝統的な民芸品の復興と新作活動も各地でおこなわれるようになった。34年には〈日本現代民芸品大展観〉が東京で開かれて一般の認識を高め,関心を深めた。36年には大原孫三郎の援助によって東京駒場に日本民芸館が設けられ,民芸運動の拠点が確立された。やがてこの運動の展開領域は36年と37年には北朝鮮から南朝鮮にのび,ついで38年以来沖縄調査がおこなわれ,さらに満州と華北にまで広げられた。39年にいたって《月刊民芸》が発刊されて,民芸運動はよりひろく各地に普及されることになった。日本の民芸運動は多くのすぐれた民芸品を発見し,また現存する各地の民芸品保存と育成に力をつくしてきたが,今日,この民芸の歴史と精神とを自己の制作の背景としようとする幾多の個人作家が生まれてきている。本来民芸運動が無名の職人の仕事であって個人作家の世界ではなかったことから,これを民芸運動の自己矛盾とする批判の声もあるが,民芸精神を自覚した個人作家が出てきたことは,今の社会の動きからは当然といえるであろうし,むしろこのことは今後の民芸運動の一つの課題といってよい。そしてまた,生活用具が機械生産によって画一化されている現在,郷土的な手工業的な領域をどう守り育てていくか,またニュー・クラフト・デザインをどうむかえ入れていくか,これも民芸運動の大きな課題であろう。
                        村岡 景夫

(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.

柳宗悦  1889‐1961(明治22‐昭和36)
やなぎむねよし 

哲学者,民芸運動の創始者。東京に生まれた。父は海軍少将で数学者の柳絃悦(ならよし),母は勝子(柔道家嘉納治五郎の姉)。学習院高等科のころ同窓生と《白樺》を創刊。その美術面をうけもち,宗教哲学,心霊学についての論文を寄稿。《科学と人生》(1911)を東大在学中に刊行。1913年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。翌年,声楽家中島兼子と結婚。学生時代からウィリアム・ブレークを研究し,14年《ヰリアム・ブレーク》を出版。この研究は後に寿岳文章と協力して創刊した書誌学的専門誌《ブレイクとホヰットマン》(1931‐33)で続けられる。また神秘主義の研究は宗派をこえて,《宗教とその真理》(1919),《宗教的奇蹟》(1921),《宗教の理解》(1922),《神に就いて》(1923)をへて《南無阿弥陀仏》(1955)にむかい,初期のキリスト教から仏教に関心が移る。両者に通底するものを求め続けたことは後年の〈神と仏〉(1956)に明らかである。
 1909年,柳は李朝の壺に心をひかれ,やがて朝鮮在住の浅川伯教(のりたか)と巧(たくみ)の兄弟と親しくなり,朝鮮を旅行し,日本の朝鮮政策を批判する文章を発表。22年には光化門取壊し反対の文章〈失はれんとする一朝鮮建築のために〉を《改造》に発表した。19年の朝鮮の独立運動弾圧,23年の関東大震災での朝鮮人虐殺をかなしみ,29年にはそれまであつめていた朝鮮美術を携えて京城景福宮緝敬堂に朝鮮民族美術館を開設した。李朝の工人のつくった陶磁器の美しさに目ざめた後,柳はひるがえって日本の日常雑器の中に,無名の工人のみごとな作品を見いだした。雑器をつくりだした人々の無心の仕事,雑器を日常生活の中に使うという〈用の美〉が,柳に信仰と結びついた生活美学への構想をいだかせた。それは千利休以来の茶道の受継ぎであり,現代の茶道の改革への提言でもあった。《茶と美》(1941),《茶の改革》(1958)へ連なる仕事の系列である。
 1926年陶芸家浜田庄司,河井寛次郎とともに高野山に旅して〈日本民芸美術館〉設立の構想を得て,設立趣意書を発表。すぐれた器の蒐集,実作の調査にのりだし,31年に雑誌《工芸》を創刊して49年までに120冊を出して終わった。これらの冊子は,軍国日本の中にあって柳の守ったけじめを示している。大原孫三郎から寄付を得て,36年に日本民芸館を創立。その後,日本のさまざまな場所に民芸館ができ,民芸風は各地のみやげ物店や料理屋のスタイルに影響をおよぼした。その間,初期大津絵,木喰,円空仏,沖縄の民芸の研究への道をひらいた。敗戦後の48年に京都の相国寺でおこなった講演〈美の法門〉は,美と醜の区分をこえて世界を見わたす視野の成立を説いて,仏教の信仰に根をおろす美意識のあり方を示した。これは《妙好人因幡の源左》(1950),《仏教と悪》(1958),《心偈》(1959)に連なる仕事である。⇒民芸                   鶴見 俊輔

(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.



<追記>




<追記>
中国新聞で特集記事が始まりましたので添付します。