[積読立読斜読]『現代語訳 風姿花伝 世阿弥』(水野聡訳、PHP、2005年)
縁あって参加している読書会。3月の課題書は現代語訳の『風姿花伝』。読書会の発表は課題本を読んでその感想を述べるもので、概ね課題書から印象に残った部分の紹介が主。
『風姿花伝』は大古典なので、課題書とは別に何冊か読了予定。別途紹介します。現代語訳は持ち込み企画だそうです。
<内容紹介>出版社のサイトより
『風姿花伝』は能の大成者・世阿弥が著した、日本最古の能楽論である。『花伝書』の名称でも知られる本書は、「花」と「幽玄」をキーワードに、日本人にとっての美を深く探求。体系立った理論、美しく含蓄のある言葉、彫琢された名文で構成される、世界にも稀な芸術家自身による汎芸術論である。原文の香気が失われぬよう、かつ自然な現代語としてスラスラと読めるよう、工夫を凝らした現代語・新訳として提供する。
七歳から年代順に具体的な稽古要領を記した「年来稽古條々」、物真似の本質を把握し表現する「物学條々」、Q&A形式の「問答條々」。そして、「花」の本質を説いた「別紙口伝」。章立て・語り口はあくまで明快、シンプルである。大陸伝来の文化から袂を分かち、日本人自ら育て、咲かせた最初の美しい「花」――。風姿花伝は700年を経た今日でも、広く表現に携わる方々はもちろん、人生訓としても読める懐の深い名著である。
<現代語訳者プロフィール>著者のHPより
水野 聡(みずのさとし)
神戸市出身、川崎市在住。
関西学院大学文学部日本文学科中退。
リクルート(株) コピーライター
エイボン・プロダクツ(株)
コピーライター、ディレクター
日本ゲートウェイ(株)
広告制作プロデューサー
他企業にて、マーケティングマネージャー、
CRMコンサルタント等をつとめる。
2004年1月独立、能文社を設立。
古典翻訳家、中世日本文化史講師。
著書に「強く生きる極意 五輪書/宮本武蔵著 水野聡訳(PHPエディターズグループ2004.8)」、「現代語訳 風姿花伝/世阿弥著 水野聡訳(PHPエディターズグループ2005.1)」、「南方録 現代語全文完訳/南坊宗啓著 水野聡訳(能文社2005.12)」、「葉隠 現代語全文完訳 山本常朝/田代陣基著 水野聡訳(能文社2005.12)」等がある。
http://nobunsha.jp/anshu.html
以下は当方が抜き書きした部分です。若干関連情報もあります。他の人が読んでもわかりません。悪しからず。
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p8
好色、博打、大酒への三重戒。亡父、観阿弥の掟である。
p11
十二、三より
この二つの美点(姿かたち、声)があれば悪い所はかくれ、よい面はいよいよ花やかに見える。
p12
しかしこの花は、まことの花ではない。ただ、時分の花というべきだ。
[memo]
名子役大成せず
p14
若さと見る人の珍しさゆえの一時の花である。まことの目利きは見分けるものである。
p16
上がるのは三十四、五までのころ、下がるのは四十以降。
p17
まず優れた美男子はいざ知らず、ほどほどの容貌であれば、直面(ひためん)の申楽は年取っては見られたものではない。
p19
能に枝葉なく老い木になるまで、花は散りもせず残って咲いたのだ。これば目の当たりにした老骨に残る花の証であった。
p31
鬼の物真似には、大いなる秘事がある。上手く演じるほど、面白くなくなるという道理である。
[memo]
犬馬は難く、鬼魅は易し
そもそも犬と鬼とはどういう意味かと言うと中国の古典「韓非子」にでてくる「犬馬難、鬼魅易(犬や馬を描くのは難しい、鬼を描くのは易い)」が元になっているそうです。ちなみにこの言葉は氏が白洲正子さんの自宅の短冊に書かれているのを見てインスピレーションを受けたそうです。もう少し分かりやすく言うと犬や馬のように見慣れたものを描くのは違いが目に付いて難しいが、鬼のような想像物は簡単(いい加減に描いてもという意)に描けるという意味です。転じて自然や文化も見慣れているものに価値を見出すのは難しく、一見派手で凄そうだが空虚な様式は容易に作られる、というような内容らしいです。(←私は実際に読んではないので怪しいかもしれませんw)
http://9tailstalking.blog115.fc2.com/blog-entry-382.html
p37
申楽というものは貴人のお出でを本(もと)とするもの。
p39
そもそも一切のものは、陰陽和するところの境に成就することを知るべきである。(昼の演目、夜の演目)
[memo]
薪能(たきぎのう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
薪能(たきぎのう)は、主として夏場の夜間、能楽堂、もしくは野外に臨時に設置された能舞台の周囲にかがり火を焚いて、その中で特に選ばれた演目を演じる能楽。
p40
一切のことに序破急があるが、申楽も同じである。
[memo]
百科事典マイペディア
序破急【じょはきゅう】
日本芸能の形式や構成上の原理を表す用語。舞楽から出た言葉であるが,芸能の種類によって意味が異なる。(1)舞楽では,1曲を構成する三つの楽章の名称。序は速度が最もおそく,拍子にとらわれず自由に演奏される。破は速度は序とほぼ同じだが,拍子に合わせて演奏され,急は拍子に合わせて急な速度で演奏される。序破急を完備した曲は《五常楽》など数曲だけである。近世邦楽では,漸次急速になるテンポのことをいうことが多い。(2)能楽では,能の構成,演出の根本理念として,のびやかな導入部,こまやかな表現の展開部,変化の急な終結部をいう。世阿弥は序一段,破三段,急一段の五段構成を作能の基本とした。また1日の演能全体から1足1句の演技まで,テンポの加速度的移行を序破急という。
p41
自作の能をもたないシテは、一騎当千の兵(つわもの)であったも兵具を持たない軍人と同じだ。
p44
まことの花の残るシテには、いかなる若いシテといえども勝つことは叶わないものである。
p46
上手は下手の手本、下手は上手の手本とわきまえ工夫すべし。
p47
生まれつき備わった位を長(たけ)という。かさといっているものとは別物だ。
p50
どの舞台でも花やかな役者。これが幽玄だ。
p51
しおれたとうい段階は、花よりもさらに上にあると言うべきだろう。
p52
○ 薄霧のまがきの花の朝じめり秋は夕べとたれかいひけむ
藤原清輔(新古今集)
p54
されば花を知りたくば、まず種を知ること。花は心、種はわざ(芸、技術)である。
p65
ただその風(ふう=伝統)を得て心より心に伝えてゆく花なれば、本書を風姿花伝と名付けたのだ。
p70
この芸能は、万人に愛され受け入れられることを、一座繁栄の福の元としている。
p71
道を嗜んだ結果として、福や富があるのだ。まず福や富を得ようとする嗜みは、まさしく道を廃れさせる。
p85
この章段は志をもつ芸人以外、一見をも許してはならない。
p87
能も一所に常住せぬところを、まず花と知るべきだ。一所にとどまらず他の姿に移り行くことが珍しいのだ。
p91
物真似には似せないという位がある。物真似を究めその物にまことなりきってしまえば、もう似せようと思う心などない。
p95
芸の位が上がったといって、過ぎし芸風をやり捨ててやり捨てしは忘れてしまうこと。ひたすら花の種を失い続けることとなる。
p95
種がありさえすれば、年々時々の折に、なぜまたその花に逢えないことなどあろうか。ただかえすがえすも、初心(いろいろ意味あり、自分の未熟さ?)
忘るべからず。
p97
人に悟られぬことにより生涯咲き続ける花を持つ主となることを授ける。秘すれば花、秘せずは花なるべからず。
因果の花を知ること、すなわち極意である。
p98
時には男時、女時というものがある。
[momo]
向田邦子『男どき女どき』(小説+エッセイ)
p100
この別紙口伝は、当芸において家の大事となるものゆえ一子相伝とする。たとえ跡継ぎが一人しかいなくとも、その物が無器量であれば伝えてはならぬ。
「家はただ継ぐから家なのではない。継ぐべきものがあるゆえ家なのだ。人もそこに生まれただけでそこの人とはいえぬ。その家が守るべきものを知る者のみ、その家の人といえるのだ」
以下、『能はこんなに面白い!』(観世清和・内田樹著、小学館、2013年)より。
p48
また舞に、目前心後(もくぜんしんご)ということあり。目を前につけて、心を後ろに置けとなり。見所より見るところの風姿は、わが離見なし。しかれば、わが眼の見るところは、我見なり。離見の見にはあらず。
離見の見にて見るところは、すなわち見所同心の見なり。その時は、わが姿を見得するなり。
p48
「初心」を忘れるということは、もはや自分を高める動機を感じなくなるということです。
松岡正剛「千夜千冊」
では、少々ながらガイドをしておくが、『花伝書』は現代語で読んではいけない。もともと古典はそうしたものだが、とくに『花伝書』にはろくな現代語訳がない。だから、『花伝書』の言葉は当時そのままで受容したほうがいい。
https://1000ya.isis.ne.jp/0118.html






























