書き写し『徒然草』継続中です。本日は第75段を描き写し。「遁世のすすめ」です。
第75段の「塵」とは仏語の「六塵(ろくじん)」のことだそうで、人間の知覚を、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根とし、その対象となる外界の刺激、色・声・香・味・触・法を、人の心を汚し、煩悩を起こさせる「塵」だとした。この「六塵」を排する修行が「六根清浄」。だそうです。
徒然草(上)
第75段 つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。
<本文>
つれづれわぶる人は、いかなる心ならん*。まぎるゝ方なく、たゞひとりあるのみこそよけれ。
世に従へば、心、外の塵に奪はれて惑ひ易く、人に交れば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心にあらず*。人に戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別みだりに起りて、得失止む時なし*。惑ひの上に酔へり。酔ひの中に夢をなす。走りて急がはしく、ほれて忘れたる事*、人皆かくの如し。
未だ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活・人事・伎能・学問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止観にも侍れ*。
<用語解説>
つれづれわぶる人は、いかなる心ならん:つれづれを嘆く人とはどういう人であろう。俗世間に交わることなく、一人孤独に居るこそよいというのに。
さながら、心にあらず:さながら、自分の心ではないようになってしまう。
分別みだりに起りて、得失止む時なし:何が得で何が損かなどと、得失ばかり考えていて、。
ほれて忘れたる事:本心を忘れて。「ほれて」は「呆けて」の意。
摩訶止観にも侍れ:「摩訶止観<まかしかん>」は天台宗の基本理念。自らの心を見通し観照することという。一○巻または二○巻。五九四年、隋の智●(ちぎ)が講述し、灌頂が筆録。天台三大部の一。天台宗の観心を説き修行の根拠となる。止観。天台止観。天台摩訶止観。(広辞苑より)。「生活・人事・伎能・学問等の諸縁を止めよ」と言われても、遺産でもない限り、今日生きてはいけないが。
<ポイント>
遁世の勧め。およそ、いま、学校教育でいう「コミュニケーション能力」だの「プレゼンテーション能力」だのはお呼びではないということ。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure050_099/turedure075.htm