2026年3月7日土曜日

[積読立読斜読] 『大東亜共栄圏 帝国日本のアジア支配構想』(安達宏昭著、中公新書、2022年) 第2章 大東亜建設審議会 ― 自給圏構想の立案 

継続精読中。

最初に「大東亜共栄圏」の外交方針をたてた松岡洋祐の考えと、アジア太平洋戦争後の方針では大きな違いがあり。共栄圏構想も国内各省庁で考えの対立があった。結論としては広範な経済自給圏を形成・維持するだけの国力が当時の日本にはなく、軍事力による一時的な制圧に終わった。





 p46

第2章 大東亜建設審議会 ― 自給圏構想の立案


1941(昭和16)年年12月8日 太平洋戦争開戦

1942(昭和17年)2月 政府、大東亜建設審議会を設置


大東亜共栄圏構想の立案(15年計画)・審議


■1 南方占領後の設置 ― 日本盟主の基本理念

■■松岡洋右の大東亜共栄圏構想


1940年9月締結、日独伊三国同盟

独伊に大東亜共栄圏構想を承認させる

同盟翌日に作成された「帝国外交方針要綱」での松岡洋祐の考え

第二次世界大戦終了後の戦後体制「夫々の共栄圏尊重」

ソ連に働きかけて日独伊ソの四国協商→英米に圧力

日米交渉→日独伊ソ英米間での「平和条約」→それぞれの共栄圏を相互に承認(戦争のない世界?)


日本の大東亜共栄圏(日本が排他的指導権をもつ)、圏内の国々の処遇に対する考え

10月4日作成の「対南方策試案」(松岡洋祐作成)

仏印、蘭印、では宗主国に主権を破棄させ、独立させ、日本の「保護国」とする考え

松岡の「それぞれの共栄圏」は早期講話が前提


1941年6月、独ソ戦争勃発→日独伊ソ協商構想が破綻


■■大東亜建設審議会の設置

1941年12月、アジア太平洋戦争、米英と戦争

1942年4月までに、日本軍は、短期間で資源豊富な東南アジア地域を占領


1942(昭和17年)2月 政府、大東亜建設審議会を設置

東条英機首相を総裁

「大東亜建設に関する重要事項(軍事および外交に関するものを除く)を調査審議」することを目的

大東亜建設審議会


p50

p51

大東亜建設審議会構成図


■■階層的な国際秩序

「大東亜建設の基本理念」

皇国の指導または統治の下、圏内各国および各民族をして各々その所を得しめ道義に立脚する新秩序を確立するを以て要となす

(東条英機の帝国議会演説を引用)


「各々その所を得しめ」→不平等な階層観念を示す→民族自決は認められていない

「その所」←明治天皇五箇条の御誓文より引用、国民生活の安寧を祈念


1941年12月1日

賀屋興宣、開戦の御前会議、蔵相

占領地の住民の生活の安定は困難との認識

松岡洋祐の構想とは別物


p56

海軍内での検討資料(階層的な国際秩序を示す)


■2 企画院と商工省 ― 経済建設をめぐる対立

■■「経済建設」構想をめぐる対立←各省庁の対立はそれぞれの優先課題の違い

大東亜建設審議会の経済圏構想

日本が指導国になって圏内の「計画交易」「産業統制」の実施

各省庁間に対立、企画院と商工省

自給圏の形成のための(1)産業配置と、全域の産業の(2)統制方法をめぐって対立


企画院・陸軍は日本満州北支を重視、商工省と対立


■■企画院構想の要因 ― 戦時人口政策との連動

内地では農村人口の維持(兵力の供給源)、精密工業に特化

大陸(朝鮮・満州・中国)で重工業の開発配置

都市化が少子化に向かう、戦争では人口減になる

★企画院の人口政策では戦後の人口数を予言


■■商工省構想の要因 ― 統制会との連携

商工省は企画院の日本満州北支への工業分散に否定的

大東亜共栄圏内の産業再配置や再編成を運営する組織を作り、権限を集中させるいことを最優先

企画院の日本満州北支を「中核地域」設定に反対(権限の分散を危惧)


■3 大東亜全体での開発目標と答申

■■主要産業の開発目標

p69

大東亜共栄圏内での主要物資・製品の15年後の生産目標と1941年実績

生産目標については厳密な議論は行われなかった

鋼材生産量が最優先

※現在地点から見れば無謀な計画、開戦半年の日本優勢の戦局では冷静な判断は難しい


■■農産物配置構想の問題

工業計画よりも対立が少なく立案

気候・地形・土壌・人口などの地理的・社会的な条件に大きくされるため


■■構想対立の要因

帝国日本は経済自給圏を運営するだけの経済力を持ち合わせていなかった

(軍事力に頼って構築しようとした)


■■審議会答申の影響力

戦争遂行のため目前の問題に取り組むことが優先

15年先の長期計画の実際の政策への反映はできない


1941年当時の国策の意思決定構造が複雑

戦時中は内閣だけで軍事が関係する国の重要政策の決定はできなかった

軍事作戦の立案・指導

参謀本部(陸軍)、軍令部(海軍)

戦時期には大本営を形成(統帥権を保持)

統帥権は内閣から独立



松岡洋右  1880‐1946(明治13‐昭和21)

まつおかようすけ 


外交官,政治家。山口県出身。13歳で渡米し,苦学して1900年にオレゴン州立大学を卒業し,04年外交官および領事官試験に合格,上海領事館,関東都督府,ロシア,アメリカに在勤した。21年に外務省を辞めて満鉄理事となり,27年には満鉄副総裁に就任,この間に対満蒙積極論の考えを強くする。29年に帰国,山口第2区から政友会代議士になった。31年の第59議会では幣原外交を批判し,満蒙は日本の生命線であると主張した。32年には上海事変処理のため外務大臣特使として上海に派遣された。また国際連盟総会には首席全権として出席し,33年2月連盟における満州国批判決議に抗議して退場,連盟脱退の“英雄”として右翼などに歓迎された。35‐39年満鉄総裁。40年7月に近衛文麿内閣の外相となるや〈大東亜共栄圏〉の確立を主張して,日独伊三国同盟を締結し,さらにソ連を加えた四国同盟を構想した。41年訪独・伊の帰途,4月に日ソ中立条約の調印にこぎつけたものの,その2ヵ月後に独ソ戦が開始され,一連の外交政策は完全に行き詰まった。同年7月,松岡の日米交渉反対論により内閣は総辞職した。その後は結核のため療養生活を続け,戦後 A 級戦犯に指名されたが,46年6月に病死した。                     芳井 研一


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フランス領インドシナ  

フランスりょうインドシナ Indochine franぅaise


1887‐1945年,ラオス,カンボジア,ベトナムなどの地域に置かれたフランス領とフランス保護領からなる連邦組織の総称。日本では仏印と略称した。

[成立]  第二帝政下のフランスは,宣教師殺害事件を口実に1858年ベトナムに侵攻し,62年のサイゴン条約によって南部ベトナムの東3省を奪い,67年には実質的に西3省を併合した。これらはフランス領コーチシナと呼ばれた。さらに70年代より,中国内陸部への商業ルートとしてのソンコイ川(紅河)に注目し,73年ガルニエ事件を引き起こした。82年のリビエール事件を機にフランスは積極的な北部侵略を開始した。83,84年の2次にわたるフエ条約により,北部ベトナムはフエ朝廷から分離されてフランス保護領トンキンとなり,北圻経略大臣がフランス理事長官の監視下に統治を許されるだけになった。中部は保護国アンナン王国として,ベトナム皇帝の統治が認められたが,理事長官が内閣の議長を務め,予算決定権を握った。

 カンボジアに対しては,フランスはコーチシナ支配の安定のため1863年保護条約を締結していたが,84年にプノンペン王宮内に兵を進め,ノロドム王に保護強化条約を強要した。これによりプノンペンの理事長官は王の政務全般を監督することとなり,さらに87年以降は財政権をも管理した。87年10月,フランス大統領は植民省管轄のコーチシナ,カンボジア,外務省管轄のアンナン,トンキンを一括して植民省に移管し,あわせてフランス領インドシナ連邦 Union de l’Indochine franぅaiseを形成させ,総督に統轄させることとした。

 93年のフランス・シャム条約により,フランスはシャム(タイ)のラオスに対する宗主権を奪っていたが,95年のフランス・ルアンプラバン協定によってフランスのラオスに対する保護権が設定された。99年には保護国ルアンプラバン王国と直轄領南ラオスがフランス領インドシナ連邦に編入された。一方,日清戦争後の清の弱体化を利用して,フランスは1898年の清仏条約によってラオカイ(ベトナム北部)~雲南府間の根越(てんえつ)鉄路敷設権と広州湾の99年間租借権を獲得し,1900年広州湾租借地もインドシナ連邦に編入した。さらに07年にはシャムからバッタンバン,シエムリアプ,シソポン3州を奪還してカンボジア領に編入し,ここにフランス領インドシナの領域が完成した。

[統治]  フランス領インドシナ行政の大綱はラヌッサン(在任1891‐94),ドゥメール(在任1897‐1902)の2人の総督の間に整備され,1911年10月30日の大統領令により完成した。連邦行政の頂点は大統領の任命する総督である。総督は連邦政府の行政,立法を独裁するのみならず,各国政府の予算を裁可・決定し,さらに戦時においてはインドシナ陸・海軍の最高指揮官であり,平時では国防会議の議長であった。まさにインドシナ小皇帝ともいえる地位である。この総督の下に連邦各国理事長官とコーチシナ知事が置かれ,各省行政長官,理事官を指揮・監督した。このフランス的行政制度に併行従属する形で,各保護国では現地人の王政府,省長官,府県知事,保護領や直轄地では府県知事が置かれ,その下に旧来の村落組織が温存されて,いわば政治的二重構造を形成した。

 連邦政府の財源の中心は関税と専売(とくにアヘン,塩,アルコール)収入であり,これは政府職員の人件費,連邦公債の償還費,陸・海軍の維持費,土木事業費としてほとんど本国に回送された。この点,フランス領インドシナの植民地政策は非経済的な略奪の色彩が強い。また地租はもっぱら各国政府の歳入となるが,おおむね政務・行政費に費消されて,不足がちであった。しかし帝国主義的植民地としてのフランス領インドシナ連邦の利権の最大のものは,コーチシナのメコン・デルタが産出する米である。メコン・デルタは最盛期では180万tの米を輸出し,1930年代には毎年ほぼ10億フランをベトナムにもたらし,地主,粋商人,精米業者,貿易商人に法外な利益を与えて,サイゴンにフランス人,華僑,ベトナム人の寄生社会を形成した。また第1次大戦後急速にゴムのプランテーション,北部の鉱業(とくにホンゲイの無煙炭)が発展したが,ほぼ完全にインドシナ銀行系のフランス資本に独占されていた。これら植民地産業には,温存された北部・中部ベトナムの封建的村落が安価で豊富な労働力を提供した。この点では典型的な二重経済構造といえよう。

[解体]  フランス領インドシナには成立直後からバンタン(文紳)蜂起をはじめ,切れ目のない反仏運動が展開されていた。40年の日本軍の北部仏印進駐により,フランスの軍事的威信が失墜するや,インドシナ共産党は反ファシスト民族統一戦線,さらに41年5月ベトミン(ベトナム独立同盟会)を結成し,バクソンなど北部山岳地帯で対日,対仏のゲリラ・解放区闘争を展開し,45年までに強力な政治・軍事勢力に成長した。45年3月9日,在仏印日本軍はクーデタ(三・九クーデタ)によってインドシナ総督府を解体した。3月11日,旧アンナン皇帝バオダイは1884年条約の破棄,ベトナムの独立と再統一を宣言した。3月12日にはシアヌーク王がカンボジア王国の独立を,4月8日にはルアンプラバン王シー・サワン・ウォンが全ラオスの統一,独立を宣言し,フランス領インドシナは解体した。ベトナムでは,8月の日本軍降伏に次いで,八月革命の成功によりベトミン主体のベトナム民主共和国臨時政府がハノイに,行政委員会がフエとサイゴンに生まれた。しかし9月に復帰したフランス軍が,フランス領インドシナの再建をねらってコーチシナを再占領し,カンボジア,ラオスの独立を取り消させたため,コーチシナでは南部行政委員会が,ラオスではラオ・イッサラ(自由ラオス),カンボジアではクメール・イッサラ(自由クメール)が,そして46年11月からはベトナム民主共和国臨時政府も抗戦に突入し,第1次インドシナ戦争が始まった。戦争は54年のジュネーブ会議によって休戦となり,フランス領インドシナは最終的に解体した。しかし旧フランス領3国(ラオス,ベトナム,カンボジア)を ASEAN(アセアン)諸国と対比して,インドシナ3国とする呼称は現在もなお一般的である。

                      桜井 由躬雄


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オランダ領東インド  

オランダりょうひがしインド Dutch East Indies


オランダがその植民地としていた現在のインドネシア共和国全域(旧ポルトガル領チモールを除く)に与えていた名称(オランダ語ではNederlandsch‐Indi∫ と書き,多くの場合〈東〉という語は入れない)。すでに18世紀ごろから,オランダ東インド会社の公式文書にこの名称が用いられているが,名実ともにインドネシア全体を含むに至ったのは1915年以後とされる。

 東インドに初めて到達したオランダ船は,1596年6月,ジャワ島西部のバンテン港に停泊したコルネリス・ド・ハウトマンの船隊である。やがて東インドに来航する船は激増し,各地の航海会社間の競争を解消するために,1602年にオランダ東インド会社が設立された。バンテン王国の藩属国ジャカルタは良港であったため,イギリス,オランダ両国の争奪の的となり,イギリス・バンテン連合軍はオランダの要塞を19年に包囲したが,第4代オランダ東インド総督 J. P. クーンはこれを守り通し,正式にこの地をバンテン王から譲り受けてバタビアと改称した。クーンはモルッカ諸島の香辛料貿易にも進出し,バンダ諸島の原住民を殺したり移住させたりしてニクズクの収穫をほとんど独占した。また23年のアンボン事件の結果,競争者イギリスはインドネシア進出をあきらめてインド亜大陸に関心を転じた。

 中部ジャワに興ったマタラム・イスラム王国は西に勢力を伸ばし,1628‐29年にかけて2度バタビアを包囲したが,ついに攻略できなかった。また西部ジャワのバンテン王国も次第にオランダの勢力に圧倒されるようになった。マタラムは46年にオランダとの間に平和条約を結び,その後77年にマタラムに王位継承戦争が起こり,オランダ東インド会社は新王の即位に助力した代償として西ジャワの地味肥沃なプリアンガン地方を獲得した。会社は次第に商業利潤から領土獲得へと方向を転じ,18世紀前半に3回起こった同国の内紛の度ごとに領土を拡張して,ついに1755年,マタラム王国をスラカルタとジョクジャカルタとに二分する調停案を示し,これを実施させてジャワ島の大半を直接支配下においた。またジャワ以外では1641年にマレー半島の良港マラッカをポルトガルから奪い,67年にマカッサル王国(ゴワ王国)との間に結んだボンガヤ条約により,インドネシア東部の海域における優位を確立した。

 領土拡張と共に新しい商業用作物が相次いで導入され,なかでも1699年にジャワに移植されたコーヒー苗はバタビア周辺やプリアンガン地方で盛んに栽培された。会社は原住民首長から収穫物を買い上げる際に,一方的に価格を決めたが,義務供出制度と呼ばれるこの方式は,のちの強制栽培制度の先駆となった。コーヒーのほかに,サトウキビ,藍,茶,綿花,のちにはゴムなどが紹介された。

 このような多角経営にもかかわらず,オランダ東インド会社は領土拡大による支出の激増や会社職員の不正利得などによって負債を重ね,保守派の牙城として本国の進歩派政治家の攻撃の的となっていた。フランス革命の5年後の1794年,フランス革命軍はオランダ本土を占領し,オランダは十数年間バタビア共和国となり,旧体制の象徴とも言うべきオランダ東インド会社は1799年に正式に解散した。

 バタビア共和国は次第にフランスの支配下に入り,ナポレオンに心酔する軍人ダーンデルスが総督に任命され,フランス最大の敵国イギリスのインドネシア進出に備えた。イギリスはこのころマラッカを占領していたが,イギリス東インド会社職員ラッフルズは強力にジャワ進攻を提案し,ついに1811‐16年ジャワを占領した。副総督に就任したラッフルズは土地制度や税制の近代化を試みたが,ナポレオン戦争の終結後ジャワはオランダに返還されることになり,復帰したオランダ植民地政庁は次第にラッフルズの近代的政策を放棄し,土着首長を利用する従来の間接統治方式に戻った。とくに30年以後は反乱の続発等により,強制栽培制度実施に踏み切った。これは政府所有地の1/5に政府が指定した商業用作物を作らせ,それを一定価格で買い取るもので,収穫物の納入やある程度の加工まで義務が課せられたため,農民は自分達の食糧を生産する余裕がなく,43年から48年にかけて飢饉が連発した。オランダはこれによって8億2300万ギルダーの利益を上げ,財政危機を乗り切ったと伝えられる。この制度はオランダの人道主義者たちの非難を受け,コーヒーを除いて70年に廃止された。

 オランダの支配に対する原住民の抵抗は各地で頻発し,強制栽培制度実施以前にも1825‐30年,ジョクジャカルタ王族の一人ディポネゴロの指導する反乱が起こり,また西スマトラでは同じころイマーム・ボンジョールの率いるミナンカバウ・イスラム教徒の反乱(パドリ戦争)があり,37年にようやく鎮圧された。さらに73年から1912年にかけて,スマトラ北端のアチェ王国に起こったアチェ戦争はオランダ軍多数の投入を必要とし,東インド最大の戦争と言われた。この戦争を境にオランダはジャワ以外のいわゆる外領への実質的支配の浸透に心がけるようになり,農業のみならず鉱産物の開発等にも力を注いだ。このような動きは何よりもイギリスのマレー半島およびボルネオ島北部への急速な進出に刺激されたためで,最後の自治領であったシンガポール南方海上のイスラム王国リアウも1911年にオランダ領となった。ただし,最東部に位置するニューギニア島への進出はかなり遅く,1884年以後一連の条約で東経141ツ以西がオランダ領と確定したものの,内陸部への進出はあまり行われなかった。

 太平洋戦争中,1942年3月に日本軍はインドネシアに進攻し,オランダ軍は無条件降伏をしてオランダ領東インドはいったん消滅した。戦後にオランダは植民地回復を意図したが,インドネシア共和国の激しい抵抗にあい,49年のハーグ協定の結果,インドネシア連邦共和国への主権委譲が決定され,オランダ領東インドの歴史は終わった。

                         永積 昭


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勢力均衡  

せいりょくきんこう balance of power


バランス・オブ・パワーの訳語。国際社会の構成員間の〈力 power〉の〈過不足ないつりあい〉を指し,その結果,一構成員がその意思を他者に強制できるほど強大になるのを妨げることができる状態として定義されてきた。これは構成員になんらかの制約を課すという点に意義があるといえる。その意味で,近代的統治機構における権力分立(チェック・アンド・バランス)の観念に対応するものといえよう。

 勢力均衡の概念は国際政治のあらゆる理論のなかでも最も古く,また最も論争性に満ちたものである。ある大国の世界支配を阻止するために,いくつかの国家が対抗勢力を結集して均衡を保つということは,古代ギリシアやインドにおいても理解され,行われていた。しかし勢力均衡が国際政治のシステムとして自覚され,意識的にその政策が追求されたのは近代ヨーロッパの国家体系nation state system においてであった。F. ベーコン,D. ヒューム,ボーリングブルック縁などイギリスの思想家や政治家は,イギリスの特殊な位置を自覚し,このシステムの利点,その微妙な操作を生かすことによって勢力均衡をその政策目標にすらしていた。同時に,平和をその思想命題としていたルソーやカントからは,王侯貴族の不道徳なスポーツであり,ホッブズ的な戦争状態の継続にすぎないとして非難されていたし,産業と通商の発展が世界の人々を平和のうちに結びつけると考えた R. コブデンは勢力均衡思考を進歩への障害とみなしていた。

 勢力均衡は一見単純な概念のようにみえるが,用法上いくつかの問題点を含んでいる。それは勢力均衡が,ほぼ平衡状態を維持している国家間の力関係のパターンを説明する〈システム概念〉として,また政策決定者が意識的にある国家の優越性を妨げたり,主要敵対国間の力の平衡状態を維持する目的で追求する〈価値概念〉として用いられるからである。いずれの場合も,勢力均衡は力の配分に関して当事国に相対的に満足されるような客観的な調整を意味しているといえる。

 勢力均衡のシステムが存在し,またそれが政策原理として成立するためには,次の諸条件が必要であろう。(1)文化的同質性 1648年から1789年までと1815年から1914年までのヨーロッパでは,共通の政治文化が存在していたために,価値の対立は生まれず,各国は多かれ少なかれ同一の行動基準を有していた。これは国際的正統性の共通の概念化の可能性を意味する。(2)システムを構成する主要国間の勢力の平衡状態 近代ヨーロッパでは,フランス,ロシア,オーストリア,プロイセン,イギリスの国力はほぼ均衡していたし,イギリスがバランサーの役割を果たしていた。(3)合理的計算にもとづく外交 各国はその国益と国力の合理的な計算の許容範囲内で行動し,システム全体の崩壊を招くような行動をとらない。18,19世紀ヨーロッパでは外交は支配者の特権事項とされ,民主的コントロールは外交面には及ばず,そのため勢力均衡は列強間の政策原理として機能しえた。(4)分割や併合が可能な小国の存在 ヨーロッパの場合,ポーランド分割に典型的にみられる。(5)科学技術ことに軍事技術が比較的に安定していること 航空機の出現による戦争形態の革命は第1次大戦以降のことであった。以上は勢力均衡を数ヵ国よりなる多極システムの特色として述べたものであるが,勢力均衡は2極システムの場合にも適用されるのはいうまでもない。事実,ある国がその敵対国との均衡をはかるべく勢力の増強につとめ,それが成功すれば力の配分が均衡されたといわれることになるが,このシステムではむしろ主要敵対国は相互に同盟網の発展と,中立的な第三者の支持調達に強い関心を寄せるであろう。第2次大戦後の米ソの対立とその陣営獲得競争はその典型例といえよう。

 ところで勢力均衡の機能と効果についてほど議論の分かれることも珍しい。勢力均衡のゆえに平和が保たれるという議論があるかとおもえば,勢力均衡は戦争の危険性を高めるといった議論もあるほどである。それぞれに一理あるといえよう。なぜなら勢力均衡が崩れるならば容易に1国の世界制覇を許し,平和が脅かされることになるからであり,他方,勢力均衡を追求する政策は必然的に軍備拡張競争を招き,戦争の原因になりかねないからである。事実は,勢力均衡が平和の装置になりうるのか,また戦争の原因なのかは論証も反証もできないほどに歴史的状況は多様だと思われる。ただいえることは,勢力均衡によって維持される国際関係のシステムが不安定だということである。それは次の理由による。

 第1は,勢力均衡は国力の量的測定の可能性を前提にしているが,国力とは人的資源,経済力,科学技術の水準,貿易,軍事力などの測定可能な要素のみか,国民性,政府の質,指導者の政治力などの質的な要素も含まれており,厳密かつ客観的な測定は不可能だということである。それゆえ第2に,どの国家も自国に有利な状況をつねに均衡だとする傾向をもち,それが相互におこなわれるために,諸国家が勢力拡大競争の連鎖に巻き込まれ,結果として国際関係に緊張を生むことになるということである。

 こうして,勢力均衡システムはかならずしも平和的なものでも,また小国の独立を保障するメカニズムでもなく,さらに大国にとっても現状維持にはならないで,かえって状況の悪化を招きかねないとなれば,このシステムにどんな利点があるといえるのであろうか。端的にいえば,それは国際関係に穏健さをもたらすシステムだということであり,戦争の場合にでもその目的と手段を限定的なものにするという点にある。軍事力を含む力が文明化されていく過程で操作された近代ヨーロッパにおいて,勢力均衡の概念がその黄金時代を経験しえたのも偶然ではないのである。しかし,20世紀にはいると勢力均衡が機能する条件はいちじるしく少なくなった。兵器の破壊力が戦争を許容させなくなったし,大衆社会の到来は外交政策の決定過程をより複雑なものにさせ,単純に国力と国益の計算だけですむものではなくさせた。しかもイデオロギーの対立が国際関係の対立を根源的なものにして,古典的な勢力均衡システムの成立の余地を奪った。

 しかしなんといっても,第2次大戦後における核兵器の出現こそ勢力均衡の意味を根本的に変えたものだといってよい。戦後米ソの恐怖の均衡は明らかに旧来の勢力均衡とは異なる。旧来の〈力〉とはそれが軍事力であれ,経済力であれ,あるいはまた人的資源であれ,領域の防衛ないしは新たな領域の獲得に必要な能力を意味したが,戦後米ソの〈力〉とは敵の抑止がなければ,〈破壊〉にしか意味をもちえないものだからである。勢力均衡はかつては暴力の程度を穏健なものにする働きを有していたが,核時代における抑止の均衡とは絶滅の危機を内在させているのである。しかもこの抑止の均衡では,軍事技術の不断にして突然の革新と核戦争の未経験のゆえに,力の合理的測定をいっそう困難にするのである。いまなお勢力均衡論を国際関係の理論ないし政策として採用する論者は少なくないが,以上のように意味の転換は明白であり,18,19世紀ヨーロッパにみられた古典的な勢力均衡はもはや機能しがたいといわなくてはならない。⇒軍拡∥世界政治∥抑止

                        高柳 先男


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統制会  

とうせいかい 


1941年8月国家総動員法にもとづいて公布された重要産業団体令により,各産業別に組織された戦時下の産業統制機構。1940年7月の第2次近衛文麿内閣成立以降,新体制運動が展開され,経済団体の再編成はとくにその焦点となった。その結果,緊急を要する鉄鋼業についての再編成がはかられ,同年4月,まず鉄鋼統制会を発足せしめ,これを機にようやく重要産業団体令の制定をみた。この勅令にもとづいて各統制会の設立がすすんだが,それらは従来の産業統制とは異なり,完全な強制カルテルであった。各産業別にその関係会社または団体は,すべて主務大臣の指定によって,統制会の会員となることを強制された。また会長の権限がいちじるしく強化され,加盟した法人の役員解任命令権にもおよぶものであった。同時に中小企業を対象とする地区別の統制組織としての統制組合も組織され,その理事長の任免権もまた統制会会長に属した。会長自体の任免権は主務大臣が掌握していて,政府の統制権限はさらに強力なものとなった。かくして2次にわたる指定により,各産業別に鉄鋼,石炭,鉱山,セメント,自動車,車両,精密機械,電気機械,産業機械,金属工業,貿易,造船,鉄軌,軽金属,羊毛,麻,人絹,綿スフ,皮革,油脂,化学工業,ゴムの22の統制会がつぎつぎに組織された。しかし,兵器製造部門はなお直接陸海軍省の管理下に残され,またより強力な統制方式としての営団が結成されるなど,統制会は実質的に十分な成果を発揮しえず,また43年10月の軍需会社法の公布は,さらにいちだんと統制会の効力をそぐ結果となった。これらのすべては戦後消滅した。   高橋 衛


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新体制運動  

しんたいせいうんどう 


1940年に第2次世界大戦の拡大に対処して総力戦体制を急激につくりだすため近衛文麿を中心に推進された政治運動で,日本型のファシズム体制を確立させた。

 第1次近衛内閣の末期からすでに日中戦争の行詰りを打開するため強力政権をつくろうとする新党運動ないし国民再組織の動きがおこっていた。40年にはいると,長期戦下の経済危機による国民不満の高まりを背景に斎藤隆夫代議士の反軍演説とその懲罰問題がおこり,既成政党の分解を促進した。おりからナチス・ドイツの電撃戦が成功し,〈バスに乗りおくれるな〉と近衛をかついで強力な政治体制をつくり戦争の拡大に備えようとする動きが各方面で活発となった。近衛側近の有馬頼寧,風見章らは〈高度国防国家の完成,外交の刷新,政治新体制の建設〉をスローガンに国民組織を基盤とする新党を結成し軍部をとりこんでこれを統制することを目ざしたし,陸軍の武藤章軍務局長らは親軍的な一国一党をつくらせようと企図した。これに対して観念右翼や内務官僚は強力新党は幕府的存在になると,国体論をたてにこれに反撃した。6月下旬に近衛が枢密院議長を辞職して新体制運動に挺身すると声明すると,新体制を謳歌する声が世間に広がった。社会大衆党を先頭に各政党は解党にふみきり,わずかに残っていた労働組合なども解散に追い込まれた。陸軍は軍部大臣現役制を武器に米内光政内閣を押し倒した。7月22日に第2次近衛内閣が成立したが,その外交政策は日独伊三国同盟と武力南進を目ざす陸軍の主張に沿うものでしかなかった。8月下旬には新体制準備会が発足したが,そこには諸種の勢力が混在しており,新体制の方向づけをめぐって激論が交わされた。その結果,運動は全国民が加わる大政翼賛会とするが,その中核体である大政翼賛会の構成員は総裁つまり近衛が指名することとなり,大政翼賛会が独自の指導性を発揮する余地が残された。しかし10月の発会式では近衛総裁は〈臣道実践〉だけを強調して失望をかった。

 おりから政府では政治刷新を望む国民の期待を背景に,企画院を中心に官吏制度をはじめ各界新体制案を立案し総力戦体制の実現を目ざしていたが,官僚統制の強化を目ざす経済新体制案に対して財界が反撃したのを手はじめに,観念右翼,内務官僚,政党などから〈新体制は赤だ〉という攻撃がわきおこった。内務官僚は新体制運動を利用して部落会,町内会などをつくらせてこれを監督下に入れたが,翼賛会の地方支部についても主導権をにぎり,これを行政補助機関化しようとした。政党は翼賛会違憲の攻撃にのりだし,翌年初めの第76議会では政府からの補助金を大幅に削減した。そのため12月の内閣改造,41年4月の翼賛会改組で風見法相,有馬翼賛会事務総長らは退陣し,観念右翼の巨頭平沼騏一郎が内相となり,内務官僚や観念右翼が翼賛会の要職を占めた。翼賛会は政府の政策に協力するだけの公事結社であるとされ,行政補助機関に転落した。新体制運動のスローガンの〈下意上達〉も国体にそむくとして〈下情上通〉と改められた。新体制運動は,こうして国民組織を基盤とした強力な政治体制をつくりだすことに失敗し,ましてや軍部を統制する力をもつことはできなかったが,これに対する国民の期待を利用し警察の圧力を併用して政党,労働組合などの自主的な組織を解散させ,国民を部落会,町内会などの地域組織や大日本産業報国会,商業報国会などの職域組織に組み込み,生活のすみずみまでも統制下におく道を開いたといえる。               今井 清一


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営団  

えいだん 


戦時経済統制が進展する過程で,1941年以降に創設された非営利的な特殊法人。住宅,帝都高速度交通,農地開発の3営団をはじめとして,産業設備,食糧,重要物資管理(のち交易)などの各営団があいついで設立された。当時,議会では〈経営財団〉の略称であると説明され,それぞれ個別法にもとづいて設立されたが,営団の名称をとらない日本医療団や日本証券取引所,さらに戦時金融金庫や南方開発金庫なども実態は営団に近いものであった。いずれも国家の全額または半額出資になるもので,株式会社に依存してきた従来の国策会社を,政府の監督のもとにいちだんと強化したもので,政府任命の官選理事による運営をとおして,戦時企業統制を推進した。第2次世界大戦後は帝都高速度交通営団をのぞいて,公団への再編成なども図られたが,それらの公団も51年までに順次廃止された。現在ある公団はその後新たに設立されたものである。⇒公社・公団

                         高橋 衛


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公社・公団  

こうしゃこうだん 


政府関係の公社には,日本電信電話公社,日本専売公社,日本国有鉄道があり,いずれも100%政府出資の公企業であったが,前2者は1985年,日本国有鉄道は87年にいずれも民営化された(各項参照)。地方公共団体関係の公社には,地方住宅供給公社,地方道路公社などがある。公団には,住宅・都市整備公団,日本道路公団,森林開発公団,船舶整備公団,首都高速道路公団,阪神高速道路公団,水資源開発公団,日本鉄道建設公団,地域振興整備公団,農用地整備公団,新東京国際空港公団,本州四国連絡橋公団,石油公団がある(1996年度末現在)。これら公団は,政府,地方自治体,公社等の公共部門が出資している公共法人である。たとえば,日本道路公団は100%政府出資であり,首都高速道路公団や本州四国連絡橋公団などは政府と自治体の共同出資である。

 公社のうち,日本国有鉄道と日本電信電話公社は,運輸・通信部門における社会資本の整備と運用を目的にしたが,公団と異なって公益事業の公共部門による運営という側面があり,独立採算制が原則であった。他方,日本専売公社は税による財政収入の確保を目的とした。これらの公社は,監督官庁の直接的な規制を受けただけでなく,予算の審議,決算報告などを通じて国会の規制も受けた。公団の目的は,それぞれの特定分野における社会資本の建設と維持・管理を行い,利用者から料金を徴収して,独立採算の原則のもとにそれを運用することである。公団は各事業年度の予算・事業計画・資金計画・決算について主務大臣の承認をえなければならない。

 公社・公団に類似した組織として事業団がある。事業団は公社・公団にくらべると,目的が多様である。たとえば,労働福祉事業団や年金福祉事業団,雇用促進事業団などは社会福祉的施策の促進を目的としているのに対し,宇宙開発事業団は科学技術開発を目的としているし,また,国際協力事業団は国際協力の促進が目的である。事業団はまた公社・公団と異なり,政府資金を支出して事業を行っているものも多く,独立採算制の適用を受けないものも多い。        奥野 信宏


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大同、賀屋興宣

大同付近は古くより〈石炭の海〉と称せられ,北魏の時代すでに採炭されたと伝えられる。下って元,明の時代にも採炭された記録が残る。しかし現在の鉱床を本格的に採炭しはじめたのは辛亥革命後の1911年以降のことである。日中戦争以前には保晋公司が所有していた大同炭田は,戦時になって満鉄に経営が依託されていた。39年12月蒙疆連合自治政府は大同煤鉱公司法を公布し,40年1月に設立(資本金4000万円),その経営に当たらせた。同公司は蒙疆政府(出資金2000万円),満鉄(出資金1000万円),華北開発株式会社(出資金1000万円)の出資による特殊法人である。華北開発株式会社は1938年日本政府の批准をえて設立され,総裁に賀屋興宣が就いた。その設立意見書には〈日中共存共栄の精神に基き,華北経済の開発を促進し,統合と調整をおこなうのを使命とする国策会社〉とあり,日本の〈国防資源〉確保のために設立されたものであった。また40年,石炭を販売する目的で蒙疆鉱産販売公司も設立された。日中戦争後,大同炭田は国民党政府に接収されたが,49年5月,人民解放軍により解放され,今日に至っている。          須山 努



岸信介  1896‐1987(明治29‐昭和62)

きしのぶすけ 


政治家。山口県出身。佐藤家の出で父方の実家を継ぐ。佐藤栄作は実弟。東京帝大法学部卒。農商務省に入り,臨時産業合理局をへて,1935年工務局長。翌年,満州国実業部次長となり,37年より満州産業開発五ヵ年計画を推進。当時,東条英機,星野直樹,松岡洋右,鮎川義介とともに,満州国を動かす〈2キ3スケ〉といわれた。39年帰国,商工次官。同年5月,8万5000人の朝鮮人労働者を日本に強制連行・強制労働させる計画を,厚生次官と連名で公表。41年1月,経済新体制問題で小林一三商工相と対立,辞任するが,同年10月,東条内閣の商工相となる。42年,翼賛選挙で当選,翌年,軍需省新設で国務相兼軍需省次官。第2次大戦後は A 級戦犯容疑で逮捕されたが,不起訴となり,48年12月釈放。講和発効後,公職追放解除とともに政界復帰。反共・憲法改正を掲げる日本再建連盟を作り,53年自由党から衆議院に当選。54年11月,鳩山一郎を担いで日本民主党を結成,幹事長となり,ついで保守合同を推進,翌年11月自由民主党幹事長となる。56年12月,同党総裁選で石橋湛山に敗れ,外相に就任したが,石橋首相の病気辞任により57年2月,首相に就任。58年,日米安全保障条約の改定交渉に入り,60年5月19日,衆議院で新条約を強行単独採決。同条約は6月19日,〈アンポ,ハンタイ。キシヲ,タオセ〉と叫んで国会を包囲した広範な民衆の見守る中で自然成立,23日批准書交換,発効した。翌月,人心一新の理由で内閣総辞職。以後も79年まで総選挙に6回連続当選。その後も親台湾・韓国の大物タカ派政治家として隠然たる力を持続した。                 神田 文人


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企画院  

きかくいん 


1937年創設された内閣直属の総合国策立案機関であるが,事実上は内閣の総動員関係の事務機関。1935年5月設置された内閣調査局は,37年5月企画庁に拡大改編され,陸軍から重要産業5年計画要綱案の提示をうけ,その検討に着手した。同年7月,日中全面戦争の開始にともない,総力戦体制の整備が急がれ,10月,総動員準備機関としての資源局と企画庁を統合することにより企画院が創設された。初代総裁は滝正雄。発足後当面した課題は,国家総動員法,電力国家管理法の制定,物資動員計画の設定,重要産業充実計画などであった。38年に入ると資金,労務,交通などの動員計画がたてられ,40年11月〈経済新体制確立要綱〉の原案が発表されたが,財界は要綱原案に反対した。企画院は戦時統制経済を推進する革新官僚の拠点として脚光をあびたが,統制経済強化への反発が生じ,41年企画院事件が起きた。42年11月まで4次の改組がなされたが,太平洋戦争の戦局悪化とともに,限られた資材,物資の獲得や発注をめぐり陸海軍の対立・抗争が激化し,さらに強力な権限を有した国家機関が求められるようになった。その結果43年11月,商工省と企画院が廃止され,新たに軍需省に統合再編された。⇒国家総動員       粟屋 憲太郎


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商工省  

しょうこうしょう 


商・工・鉱業を所管した中央官庁。現在の通商産業省の前身。農商工業に関する施策は,1881年以来,一括して農商務省が行っていたが,第1次大戦後の産業発展の結果,農業部門と商工業部門は発展の速度や利害が相違しはじめ,帝国農会等の農業団体の圧力もあり,1925年に同省は商工省と農林省に二分された。商工省は大臣官房と商務,工務,鉱山の3局,その下の13課,および製鉄所,特許局等の付属機関から成る小型官庁であった。しかし昭和初年からの経済恐慌処理と,産業合理化政策の実施,満州事変を契機とする経済の統制化にともない,しだいに業務と機構は拡大した。30年臨時産業合理局が外局として設けられ産業合理化行政を専管し,また同年には通商戦の激化にそなえて貿易課を貿易局に昇格させた。日中戦争開始前後から商工行政は戦争経済のための動員と統制がもっぱらとなり,37年5月臨時産業合理局に替わって統制局が,6月には燃料局,翌年5月には臨時物資調整局が設置された。39年戦争の長期化にともない機構は全面的に改変され,それまでの商・工・鉱の業種別部局課編成から物資別の機構となり,官房のほか総務,鉱産,製鉄,化学,機械,繊維,管理の7内局,1部,4外局となった。41年の再改編後43年軍需省が設置されるや,商工省は解体され,鉱・工部門は軍需省の,商務および軽工業関係は農商省の所管となった。第2次大戦終結とともに商工省は復活したが,49年貿易庁と併せて通商産業省となった。                坂本 雅子


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大本営政府連絡会議  

だいほんえいせいふれんらくかいぎ 


日中戦争開始後に設置された国務と統帥の連絡調整機関。日中開戦後国務(政府)と統帥(陸軍参謀本部と海軍軍令部)の矛盾対立,政戦両略の不一致に悩んだ近衛文麿首相は,首相の大本営出席を要求したが軍部に拒否され,政府はやむなく1937年11月20日大本営設置と同時にこの会議を設置した。おもな構成員は首相,外相,蔵相,陸相,海相,参謀総長,軍令部総長などであり,必要に応じて他の閣僚や枢密院議長などが出席し,とくに重要国策決定のさいには天皇が出席する御前会議として開催された。軍部が統帥事項を議題とすることに反対したため,政戦両略の一致はならず,38年1月以後は開催が中断された。40年7月第2次近衛内閣が会議を再開し,南方武力侵略などを含む〈世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱〉を決定して以後,統帥事項をのぞく事実上の最高国策決定機関となり,同年11月からは定期的に開催された。しかし所期の目的を十分に果たしえず,44年8月5日小磯国昭内閣によって廃止され,同日新たに最高戦争指導会議が設置された。

                      木坂 順一郎


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最高戦争指導会議  

さいこうせんそうしどうかいぎ 


太平洋戦争末期の日本の最高戦争指導機関。政戦両略(国務と統帥)の一致を実現するため,小磯国昭首相の提唱により1944年8月5日大本営政府連絡会議を廃止して設置された。会議の目的は,〈戦争指導ノ根本方針ノ策定及政戦両略ノ吻合調整ニ任ズル〉ことにあり,会議は宮中で開かれ,重要案件の審議には天皇も臨席し,首相,外相,陸相,海相,参謀総長および軍令部総長の6名を正式の構成員,内閣書記官長,陸軍省,海軍省の両軍務局長を幹事とし,必要に応じて他の国務大臣,参謀次長,軍令部次長,枢密院(すうみついん)議長を出席させることとした。またこの会議では,純統帥事項が審議事項からはずされていたから,政戦両略の一致ははじめから困難であり,そのため小磯首相は45年3月特旨をもって大本営に列することになったが,この措置によっても目的を達することができなかった。つづく鈴木貫太郎内閣のもとでは,東郷茂徳外相が軍部の強硬論を押さえるため,正式構成員のみによる会議を提唱し,5月の会議ではソ連を仲介とする和平工作が議せられたが,6月には軍部の主導のもとに全構成員による御前会議で本土決戦遂行のための〈今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱〉を決定するなど,会議が和戦両派の対立の場となり,ついに8月10日と14日の御前会議では,天皇の裁断によってポツダム宣言の受諾が決定された。会議は敗戦後の8月22日の閣議で廃止され,終戦処理会議にかわった。              木坂 順一郎


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大本営  

だいほんえい 


戦時または事変において天皇の隷下に設置された第2次大戦前の最高統帥機関。最初に法令化されたのは1893年5月〈戦時大本営条例〉で,1年後の日清戦争時に初めて設置された。このときは陸軍の参謀総長が幕僚長となって陸海軍の作戦計画を担当した。また,統帥権独立制度の下で,統帥機関である大本営に文官である首相伊藤博文が列席して外交的見地から政府と統帥との調整にあたった。1903年12月には参謀総長,海軍軍令部長が並立して幕僚長となるようになり,幕僚中に文官の存在を認めるように改正され,日露戦争が戦われた。日露戦争では陸・海軍,あるいは政府との調整は大本営に首相,外相等が参加するなどの形でなされた。18年からのシベリア出兵時に大本営は設置されなかったが,参謀次長田中義一を長として参謀本部,陸軍省の部局課長を委員とする軍事協同委員会(後に時局委員会)が秘密裏につくられた。この出兵では閣僚,政党党首等で構成される臨時外交調査委員会が出兵―撤兵過程の政治的決定のうえで重要な役割を果たし,参謀本部との間にあつれきが生じた。日中戦争開始後の37年11月,戦時だけでなく事変の際も必要に応じて大本営が設置できることを規定した新大本営令が制定され,宮中に大本営が設置され,以後太平洋戦争まで存続した。

 日清戦争以後,時代が下るにしたがって大本営が統帥部のみによって運営される傾向が強化され,また陸軍と海軍との対立,および統帥部と政府との調整は困難になっていった。明治期には元老,大正期には外交調査会などが事実上その調整役を行ったが,昭和期に入るとそのような役割を担うものがなくなった。そこで37年11月の大本営設置と同時に大本営政府連絡会議を上記の役割を担うべく形式的,制度的対応として設置したが,必ずしも期待されたとおりではなかった。この会議の運用を形式的に整備し,44年8月に最高戦争指導会議と改称し,敗戦まで存続した。同会議は戦争指導そのものには大きな意味をもたなかったが,日本を降伏終戦に導くうえには一定の役割を果たした。なおこの会議設置以前に一時小磯国昭首相が特旨により大本営に出席したことがある。大本営政府連絡会議や最高戦争指導会議の構成は首相,外相,蔵相,陸相,海相,参謀総長,軍令部総長,また必要に応じて統帥部各部長,外務省局長などである。このように戦争指導は広範な社会的,政治的勢力および機関に立脚して行われず,ほとんど統帥部のみによって行われた。他方,日中戦争,太平洋戦争のごとき長期持久,かつ国民の総動員を必要とする状況にあって,戦争を継続するために,国民に対しては不利な情報を隠戴(いんぺい)するのみならず,情報を意図的に作りかえて戦意高揚をはかり,戦後には欺瞞(ぎまん)とでたらめの代名詞となった〈大本営発表〉がある。大本営は45年9月13日 GHQ の指令によって廃止,大本営令は10月15日に廃止となった。なお日本とは異なり,フランスの軍事高等会議,イギリスの軍事会議等には政府メンバー(主として軍部大臣)が長として存在し,さらに政府,議会に制度的に従属していた。したがって,文民統制の原理は,戦時にも制度的に貫徹されていたといってよい。           雨宮 昭一


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