オリジナルは立川志の輔さんの創作落語。中井貴一さんが企画・主演での映画化。
現代と江戸時代を一人二役で演じる、コメディー・タッチの佳作でした。
伊能忠敬の日本地図が主役なのですが、伊能忠敬は映画の劈頭で死んでしまい、
出てきません。
5月21日(土曜日)20時05分の回、段原イオンシネマ。
↓映画のノベライズ本はこちら。
2022年4月29日金曜日
[積読立読斜読] 『大河への道』(立川志の輔著、河出文庫、2022年)
伊能図
いのうず
伊能忠敬を中心とする伊能(測量)隊が,1800‐16年(寛政12‐文化13)に,幕府の事業として日本全国を測量して作成した日本で最初の近代科学的地図。忠敬は測量成果の集大成の途中,全国図完成前に死去したが,彼の死後は高橋景保の監督下で作成され,1821年(文政4)に完成した。大図(1里を3寸6分で表現し,縮尺にして1/3万6000,214枚),中図(1里を6分,縮尺1/21万6000,8枚),小図(1里を3分,縮尺1/43万2000,3枚)からなり,すべて手書きの彩色地図で,〈大日本沿海実測全図(実測輿地全図)〉と総称される。道線法を主体に,無数の交会法を加味した測量法により,さらに緯度の測定を天文観測により行って作成されており,地図の内容は京都を通る経線を0ツ とし,海岸線とおもな街道およびこれらに沿う町村名などが精密に記されている。また遠方の山頂や島などを諸地点から望んだ方位線が朱色で記入され,地図に美しさを添えている。しかしこれらの地図は秘図として幕府に蔵され,一般には公開されなかった。なお,伊能全国図にはほかに特小図(縮尺1/86万4000)もある。これは未測量の九州以外について忠敬の測量結果を用い,在来の種々の国絵図を参考にして高橋景保が1809年(文化6)編修したものであり,〈日本輿地図藁(仮製日本輿地全図)〉と呼ばれる。
1829年(文政12),シーボルトが帰国する際,その所持品の中に伊能特小図の写しがあることが発覚して,この地図を与えた高橋景保は捕らえられて翌年獄死した。しかしシーボルトはこの図が押収されることを予知し,徹夜で写してバタビアへ送った。シーボルトは1840年(天保11)にオランダで《日本国地図》を刊行したが,縮尺が小さくて実用性に乏しいのであまり評判にはならなかった。江戸条約に基づき,61年(文久1)にイギリス海軍からアクテオン Actaeon 号を主艦とする測量艦隊が来日したが,隊長は幕府から派遣された案内役人が持っていた伊能小図を見てその正確なのに驚き,その写しをもらって沿海測量をやめ,近海の測深だけを実施して帰った。63年にイギリス海軍水路部では《日本付近沿海図》(メルカトル図法)を刊行し,これによって日本列島の正しい状態が世界に広く知られた。明治になって伊能図を基本とした地図が幾種類か刊行され,84年陸軍参謀本部測量局では伊能中図を主体とし,未測の部分は他の資料で補い,輯製1/20万図の編集を始め,これは明治年代の代表的地図として一般社会に広く利用されたのみならず,大正年代までその生命を保った。伊能図は1873年の皇居炎上によって全部が焼失した。そこで伊能家では控図(副本)を献上したが,保管を委託されていた東京帝国大学付属図書館が関東大震災で焼けてこれも失われた。ために大・中・小図全部がそろったものは現存しない。ただ忠敬の測量に際し,世話になった大名に贈ったものが少数残っており,なかでも東京国立博物館蔵の伊能中図一そろいはその代表である。そのほかに写図も全国に点々と存在する。 保柳 睦美
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高橋景保 1785‐1829(天明5‐文政12)
たかはしかげやす
江戸中期の天文地理学者。通称は作左衛門,号は観巣または蛮蕪。父至時(よしとき)の死後,天文方を継ぎ,幕命により世界地図作成に従事し,1810年(文化7)《新訂万国輿地全図》を完成。他方,伊能忠敬の実測を基に《大日本輿地全図》を作成した。また満州語を研究して《満文輯韻(しゆういん)》を編んだ。26年(文政9)に参府したシーボルトと交わり,学術資料を交換したが,国禁の日本図を贈ったことが発覚して逮捕され(シーボルト事件),獄死。 佐藤 昌介
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シーボルト事件
シーボルトじけん
1828年(文政11)に起こった洋学者弾圧事件。オランダ商館付医員シーボルトは,1826年にオランダ商館長の江戸参府に随行し,江戸の洋学者と交流した。幕府天文方高橋景保からは,クルーゼンシュテルンの《世界一周記》等と交換に,伊能忠敬の日本沿海実測図をもとにした地名入りの日本略図,蝦夷地図,間宮林蔵《東韃紀行》を贈られ,幕府眼科奥医師土生玄碩(はぶげんせき)からは,開瞳術伝授と交換に将軍拝領の葵の紋服を贈られた。28年に,帰国のためにそれらを含む収集資料を積み込んだ乗船が台風で破損し,外国へ持ち出すことを禁じた地図等が積荷から発覚した。このため,シーボルトは出島に禁固されて取調べをうけ,翌年,国外追放,再来日禁止の処分をうけた。高橋は死罪,土生は改易の処分となり,このほか,天文方の高橋の配下の者,およびオランダ通詞ほか多数の関係者,洋学者が処罰され,蛮社の獄に先立つ洋学者弾圧事件となった。
藤田 覚
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伊能忠敬 1745‐1818(延享2‐文政1)
いのうただたか
近代的日本地図作成の基礎を築いた人。上総国小関村,現在の千葉県九十九里浜沿岸の村に生まれたが,幼少時のことはよくわからない。1762年(宝暦12)に佐原の伊能家の養子となり,名を忠敬と改めた。酒造,米穀取引などの家業にいそしむ一方,村政にも尽くして名主を命ぜられ,苗字帯刀を許される。早くから暦学を好み,天体観測も行った。95年(寛政7)に家を長男に譲り,江戸へ出て深川黒江町に住み,高橋至時(よしとき)に師事して52歳のときから西洋天文学の本格的な勉学を始めた。至時は寛政改暦のために関西から召された若い学者であったが,至時の立場からは緯度1ツ の距離の測定,ひいては地球の大きさの確定が当面の課題であった。そこで防衛問題が切迫していた蝦夷測量の重要性を幕府に説き,ここへの旅行に際して南北に長い奥州街道を測量して,緯度1ツ の距離を確定しようと考え,忠敬とその弟子数名に実施させた。これによって示された忠敬の測量技術は幕府を動かし,ついには日本全国沿海測量にまで発展した。こうして伊能隊(忠敬を中心とし,その弟子および天文方の下役それぞれ数名)の測量は,忠敬が56歳から72歳までの間にわたり,その測量日数は3737日,測量距離は4万km近く,天体観測地点数1203に達した。測量に際しては沿道の諸藩から多数の手伝人が差し出された。測量に用いた測器機は,高橋至時やその同僚の間(はざま)重富が漢籍から示唆を得て苦心を重ね,精密工まで養成して作製したものであったし,この測量によって得た緯度1ツ の距離28.2里(地球を球として)は,現在からみてもかなり正確なものである。忠敬の業績は〈伊能図〉と呼ばれる地図および《輿地実測録》として編纂された。その墓は遺言によって東京上野の源空寺墓地内の高橋至時の墓と並んでいる。千葉県佐原市の旧宅敷地内には伊能忠敬記念館が建ち,遺書(測量日記28冊を含む)や遺品(観測器などを含む)が重要文化財として蔵され,公開されている。
保柳 睦美
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