2019年12月27日金曜日

[積読立読斜読] 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ著、新潮社、2019年)


著者のブレイディみかこさんはちょっと変わった経歴を持つイギリス在住のライター。アイルランド人のご主人と息子さんとロンドンの南にあるブライトンで生活されてます。
クイーンの"Brighton Rock" のブライトンです。

もともとパンクロックが好きでイギリスに居ついてしまった格好のブレイディさんですが、地元のパブの会話について行くべく図書館・新聞等でイギリスの政治・経済・歴史を勉強し、いまや著名新聞社特派員を差し置いて第一級のルポを書かれる書き手となりました。



当方はあまりイギリスの現地情報に興味がないので、ブレイディさんの文章構成に唸ることはあっても、一冊じっくり読んだことはありませんでした。

本書はこれまでと立ち位置を変えて、公立の中学校に進んだ息子さんの日常と、母と息子の会話を通して、EU離脱で大揺れに揺れるイギリス国内事情と、時折描写される、これも難問山積の母国日本事情を織り交ぜながら綴られる、英国版『君たちはどう生きるか』です。

優良校に進学できた優等生の「ぼく」が何故、元・底辺中学校に通くことになったのかは本書に譲るとして、本書のもう一人の書き手「ぼく」の立ち位置が絶妙です。タイトルになった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』が示すように日本人とアイルランド人のダブルとして生まれ、思春期特有の「ブルー」な感情が、母との会話を通じて第一級のルポを生み出しました。タイトルは「ぼく」のノートの端にあったいたずら書きだそうです。

感受性豊かなな「ぼく」から、ブレイディみかこさんの話の聞きだし方が上手なのか、それとも「ぼく」が観察力豊かで、適格な表現ができるのかは不明ですす。自分で考える子供を育てるような授業内容のあるイギリスの公立中学校の環境もあるのでしょう。

それにしても腐っても大英帝国。社会人がまっとうな議論ができ、考えることのできる大人に育つような教育システムはまだまだ健在のようです。ブレイディさんは日本からみれば落ち目のイギリスのことはあまり心配してません。議会制民主主義の長い歴史があるからで、いまさらながらもらいものの民主主義で、かつそのありがたみがわかってない日本の将来のほうが心配になりました。

自分がもし中学生の親ならば、こんなに密度の濃い会話はできないでしょうね。(かつて親だったのですが単身赴任中でほとんど会話してません)。


<著者プロフィール>
1965(昭和40)年福岡生れ。県立修猷館高校卒。音楽好きが高じてアルバイトと渡英を繰り返し、1996(平成8)年から英国ブライトン在住。ロンドンの日系企業で数年間勤務したのち英国で保育士資格を取得、「最底辺保育所」で働きながらライター活動を開始。2017年『子どもたちの階級闘争』で新潮ドキュメント賞を、2019(令和元)年『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でYahoo!ニュース|本屋大賞2019年ノンフィクション本大賞を受賞。他の著書に『THIS IS JAPAN』『ヨーロッパ・コーリング』『女たちのテロル』などがある。

<内容紹介>
優等生の「ぼく」が通う元・底辺中学は、毎日が事件の連続。人種差別丸出しの美少年、ジェンダーに悩むサッカー小僧。時には貧富の差でギスギスしたり、アイデンティティに悩んだり。世界の縮図のような日常を、思春期真っ只中の息子とパンクな母ちゃんの著者は、ともに考え悩み乗り越えていく。落涙必至の等身大ノンフィクション。

いずれも新潮社のサイトより。

2019年12月26日木曜日

[その他] 正月飾り




お正月に坊さんが二人いてお正月(和尚がツー)。@初代・林家三平。

クリスマスが終わったので正月向けにディスプレーを変更しました。
勤め先と自宅の三か所。

海老と鯛の床飾りはプロダクトデザイナー・小林良一さんが主宰するスタジオ・ガラの作品。水引の正月飾りは金沢市にある「自遊花人ギャラリー」水引作家、廣瀬由利子さんの作品です。


2019年12月24日火曜日

[その他] クリスマスのプレゼント



隣家の長女宅では玄関前に大きなツリーを飾ってあり、その下に孫二人のクリスマス・プレゼントが置いてあります。明日の朝開封のようです。

たまたま本日頼んでいたモカシンの底貼が出来上がったのと、クラプトンのクリスマス・アルバムが実にクリスマスらしいので(クラプトンの自作の絵だそうです)便乗して飾ってみました。

(エリック・クラプトンのレコードは45回転2枚組です)。


[積読立読斜読] 『彼女に関する十二章』(中島京子著、中公文庫、2019)


題名に惹かれて文庫本で購入しました。中島京子さんの作品は『長いお別れ』に続いて二作目の読了です。

2010年『小さいおうち』で直木賞を受賞し、旺盛な筆力で絶えることなく佳品の小説を生み出されているという印象です。ウィキペディアでプロフィールを調べてみると、両親がフランス文学者というサラブレットの家系のようです。幼い頃から読書する習慣が自然に身に付き、血肉となっているのではないかと創造されます。

デビュー作の『FUTON』からして、田山花袋『蒲団』の構成を換骨奪胎して現代に蘇らせた作品で、本作も伊藤整の1954年のエッセイ『女性に関する十二章』を下敷きに、熟年夫婦の日常を描いたものです。

現代ではほとんど読者がいないと思われる『女性に関する十二章』をどう取り入れるかですが、主人公の夫が編集プロダクションを経営しており、ある会社PR誌に、創業者の会長が趣味である『女性に関する十二章』を下敷きに女性論を描いてほしいという依頼があった、という設定で、これで勝負あったという感じです。

この換骨奪取されるもと作品がなければ単なるホームドラマなのですが、語り手をパートの主婦に置いたことで、この古色蒼然たる女性論に時に反発、時に同意、という感情の流れをうまく章立てして構成しています。

[本文からメモ]
P89
女性に縁のなかった息子が連れてきた初めての彼女が小太りで老け顔だったことを受け、夫の放った一言。

「鰯(いわし)で精進(しょうじん)落ち:」
やっと迎えた精進落としの宴に、イワシのようないつでも食べられる魚を出す。ずっと耐えてきた努力が報われないことや、つまらないことで努力がむだになることのたとえ。

P211
思えば遠く来たもんだ、とうのは、あれは中原中也だったけ。昔、あの詩が好きだった、と聖子はまた忘れていたことを思い出した。

P212

「違う!それは海援隊よ。そっちはちっともよくないのよ。『遠く来たもんだ』とか『遠くへ来たもんだ』じゃ大違いよ。『へ』が入るだけでダサくなるのよ。女に振られて死のうと思ったとか、うっとうしい歌詞にしちゃって。だいいち、『とんおおくんええ』って、あの演歌みたいな節回しがいや」

「つまんないことで怒るなよ。」


頑是ない歌(1938(昭和13))
中原中也 『在りし日の歌』より

思えば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いずこ

雲の間に月はいて
それな汽笛を耳にすると
竦然(しょうぜん)*1として身をすくめ
月はその時空にいた

それから何年経ったことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追いかなしくなっていた
あの頃の俺はいまいずこ

今では女房子供持ち
思えば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであろうけど

生きてゆくのであろうけど
遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこいしゅうては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る僕の性質さが
と思えばなんだか我ながら
いたわしいよなものですよ

考えてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやってはゆくのでしょう

考えてみれば簡単だ
畢竟(ひっきょう)*2意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさえすればよいのだと

思うけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いずこ

*1 竦然(しょうぜん):恐れてぞっとするさま。悚然。慄然。
*2 畢竟(ひっきょう):つまり。結局。




思えば遠くへ来たもんだ(1978年)

■唄:海援隊  ■作詞:武田鉄矢  ■作曲:山木康世

踏切りの側に咲く コスモスの花ゆらして
貨物列車が走り過ぎる そして夕陽に消えてゆく
十四の頃の僕はいつも 冷たいレールに耳をあて
レールの響き聞きながら 遥かな旅路を夢見てた

思えば遠くへ来たもんだ 故郷離れて六年目
思えば遠くへ来たもんだ この先どこまでゆくのやら

筑後の流れに小鮒釣りする人の影
川面にひとつ浮かんでた 風が吹くたび揺れていた
二十歳になったばかりの僕は 別れた女を責めながら
いっそ死のうと泣いていた 恋は一度と信じてた

思えば遠くへ来たもんだ 今では女房子供持ち
思えば遠くへ来たもんだ あの頃恋しく思い出す

眠れぬ夜に酒を飲み 夜汽車の汽笛聞くたびに
僕の耳に遠く近く レールの響きが過ぎてゆく

思えば遠くへ来たもんだ 振り向くたびに故郷は
思えば遠くへ来たもんだ 遠くなるような気がします

思えば遠くへ来たもんだ ここまで一人で来たけれど
思えば遠くへ来たもんだ この先どこまでゆくのやら

※国鉄からの依頼で作成したが、採用は谷村新司の『いい日旅立ち』となった。


[内容紹介]
彼女に関する十二章
中島京子 著

〈五十歳になっても、人生はいちいち驚くことばっかり〉息子は巣立ち、夫と二人暮らし。会計事務所でパート勤務の宇藤聖子が、ふとしたことで読み始めたのは、六十年前にベストセラーとなった「女性論」。一見古めかしい昭和の文士の随筆と、聖子の日々の出来事は不思議なほど響き合って……。どうしたって違う、これまでとこれから。人生の新たな段階を迎える世代ならではの感慨と、思いがけない新たな出会い。セクハラ、LGBT、貧困――身近な社会問題を織り込みながら、くすりと笑える読み心地のよさ。ミドルエイジを元気にする上質の長編小説

中央公論新社のサイトより


[中島京子さんのプロフィール]

1964年東京都生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒。出版社勤務を経て渡米。帰国後の2003年『FUTON』で小説家デビュー。2010年『小さいおうち』で直木賞、2014年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞、2015年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ作品賞、柴田錬三郎賞、同年『長いお別れ』で中央公論文芸賞、2016年日本医療小説大賞を受賞した。他に『平成大家族』『パスティス』『眺望絶佳』『彼女に関する十二章』『ゴースト』等著書多数。

新潮社のサイトより

伊藤整  1905‐69(明治38‐昭和44)
いとうせい

作家,評論家,詩人,翻訳家。北海道生れ。本名整(ひとし)。小伍高商卒,東京商大中退。1926年,詩集《雪明りの路》を出したが,まもなく小説,評論に転向。S. フロイトの精神分析を文学にとり入れ,J. ジョイスなどの西欧20世紀文学の方法を紹介,移入した。その後,抒情詩人としての資質を知性で統御しながら,20世紀小説の方法と私小説の持つ芸術的な力を組み合わせる独自の方向に進み,小説《街と村》(1939)から《得能五郎の生活と意見》(1941),《得能物語》(1942)を経て《鳴海仙吉》(1950)を書いた。また《小説の方法》(1948)は,私小説を中心とする日本の近代小説の性格を西洋と比較しながら理論的に解明した画期的な評論である。50年,D. H. ロレンスの《チャタレー夫人の恋人》を訳して裁判沙汰になった(チャタレー裁判)が,その後も《若い詩人の肖像》(1956),《氾濫》(1958),《変容》(1968)などの長編を世に送る一方,《日本文壇史》全18巻(1953‐72刊)の偉業を残した。           曾根 博義

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『女性に関する十二章』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「女性に関する十二章」(じょせいにかんするじゅうにしょう)は、作家伊藤整のエッセイ。『婦人公論』1953年1月~12月号に連載。1954年、中央公論社から単行本として刊行されベストセラーになった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%AB%A0







2019年12月23日月曜日

[積読立読斜読] 『ペンギン・ブックスが選んだ日本の名短編29』より内田百閒「件(くだん)」



洒脱なエッセイのほうが読者が多いかも知れません。内田百閒の「件(くだん)」(1921)を読みました。編者のカテゴリーでは「恐怖」で括られてます。

「件」と書いて「くだん」と読ませます。「件」の漢字の構成「人」と「牛」となってますが、顔が人間で、胴体が牛という化け物に変身してしまった男の話です。「件(くだん)」の化け物は内田百閒の創作かと思ってましたが、江戸時代からの想像上の化け物のようで、小説作品も多数あるようです。


百閒版「件(くだん)」は語り手を「件」に変身してしまった男に置いたところが秀逸で、「件」になった以上何か預言めいたことを言わないといけないということを知った「件」の苦悩という入り組んだ諧謔で小品ですが傑作と思います。

半挿(はんぞう)=盥の一種

内田百閒 1889‐1971(明治22‐昭和46)
うちだひゃっけん

小説家,随筆家。本名栄造。別号百鬼園。岡山市生れ。1914年東大独文科卒。陸軍士官学校,法政大学教授を歴任。六高時代に俳句を学び,また夏目漱石の作品に親しむ。1911年漱石を訪ね,以後門下となり,著作の校正などを手伝い,漱石没後は全集編纂に加わる。漱石の《夢十夜》やE. T. A. ホフマンの作に影響をうけ,存在の不安感を夢や幻想に託した小品,短編を執筆,21年以降それらを発表し,一部に注目された。《冥途》(1922),《旅順入城式》(1934)などを刊行する一方,《百鬼園随筆》(1933),同続編(1934),《阿房列車》(1952)などで,独自の随筆のジャンルを開拓した。鋭い観察ととぼけた味わいの筆致の絶妙なバランスは,近代日本の文学に類例がなく,従来の文学史では十分位置づけられているとはいい難い。しかし,生涯の貧乏暮しから生まれた気品ある散文は,大正・昭和の精神史を考える上でも貴重で,再評価の気運がたかまっている。
                         遠藤 渉

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2019年12月22日日曜日

[積読立読斜読] 『教育格差 ―階層・地域・学歴』(松岡亮二著、ちくま新書、2019年)



第1章のまとめです。


第1章 終わらない教育格差

主観的には、戦後日本の産業構造の変化や、ほとんどの中学生が高校に進学するようになった1970年代の「大衆教育社会」になったため、進学に関して「生まれ」は関係なくなったと感じる人も多い。

ほとんど「みんな」が高卒となれば、それは平均的な学歴となるし、相対的に有利な条件を持っている層は大学に進学する。

絶対的な水準として「みんな」の教育年数が伸びたところで、相対的な差は残る。

現代の日本には、出身階層によって人生の可能性に幅があることに変わりはない。


以下は第1章のまとめ。

ここでの「生まれ」は出身階層(父親が大卒かどうか)・出身地域(15歳時に三大都市圏に居住していたかどうか)を意味する。

「不利な状況」とは、進学した高校が偏差値の低い高校であったという状況。


①すべての年齢層・性別で、出身階層(父親が大卒かどうか)によって大卒割合が異なる。

②1990年代以降に育った若年層だけではなく、経済安定成長期とバブル期(70年代、80年代)に15歳だった中年層においても「子供の貧困」経験者の大卒割合は低い。

③男性はすべての年齢層、女性は20代について、出身地域(三大都市圏か否か)によって大卒割合に格差がある。都市規模による格差であれば、女性のすべての年齢層で確認できる。

④「大衆教育社会」であった1990年代であっても、階層によって教育価値志向に格差があった。2000年代と2010年代も同様。

⑤階層による教育サービス利用志向の格差は、1990年代には確認できない。2000年代以降にはある。

⑥1990年代、教育価値志向は地方(非三大都市圏)のほうが高かった。2000年代以降は逆転し、三大都市圏のほうが高い。

⑦1990年代、教育サービス利用志向に地域格差はなかった。2000年代以降は最大都市圏のほうが高い。

⑧住民の大卒者割合の地域格差は、戦後一貫して拡大傾向にある。

⑨ほとんどの年齢層・性別で「不利な状況」を打破して大卒となった人たちの平均的な階層は高かった。

⑩すべての年齢層・性別で「有利な状況」から大卒となった人たちの階層は高かった。

[結論]
戦後の日本社会は大きく変動したが「いつの時代にも教育格差がある」。

[その他] 時々食べたくなるパン(?)


「時々食べたくなる」シリーズ。きりがないのでこれで止めます。

地元タカキベーカリーの「アーモンドブーレ」と「チョコレーヌ」。スポンジ生地にコーティングまたは味付けしたもので、正確にはパンでありませんが。


「コロネ」は各社から出てますが行ったスーパーでは神戸屋のものが。当方は本格的なチョコクリームではなくてまがい物の安物の味が好きです。

「チョコレーヌ」は「マドレーヌ」からの発想でのネーミングでしょう。「アーモンドブーレ」の「ブーレ」の語源がわかりません。誰か教えてください。

kenichiowaki@gmail.com まで。


[その他] 喫茶店パールに再会 サロンシネマ

往年の喫茶店 パール

看板は譲り受けたそうです 

店内にあった象の置物も

広島駅前再開発で立ち退きになった渋すぎる喫茶店パール(昭和32年創業)が、なんとサロンシネマの中で店名を譲り受けて営業中。何回かこの映画館に来てますが、うかつにも気づきませんでした。

駅前のパールには何回か行ったことがあります。濃いコーヒーにピーナツの小皿がつき、コーヒーを飲み終わったころ、なぜか緑茶が出てきます。

駅前再開発で何もかも新しくなりましたが、戦後の闇市の跡を引きずっていたような愛友市場とか、この喫茶店とか、亡くなってしまうのは惜しい感じがします。

[その他] 映画『No Smoking』を観てきました。。。


細野晴臣さん音楽活動50周年記念のドキュメンタリー映画『No Smoking』を観てきました。サロンシネマ。

12月21日(土曜日)のみレイト・ショー 21:40 - 23:25の回。本日は配偶者が江田島の実家に帰っており当方が独身なので自由に満喫しました。

アマチュア時代からほぼ編年体の構成で、ファンは必見です。当方ははっぴいえんど時代から熱心ではありませんが聴いてきたものですので感慨深いものがあります。

ミュージシャンとしての正しい「枯淡の境地」と思います。

2019年12月21日土曜日

[その他] 献血しました


年末年始はA型の血液が不足するそうで、はがきの案内が来たので献血しました。(サンモール前の献血場)。

従業員が多数いる事業所では献血チームが来られますが、現在の勤務先にはそのシステムがないので。

中学生の頃、五木寛之さんが好きで全集を購読してました。昭和30年前後の苦学生は本当に貧しかったようで「売血」の話が出てきます。

現代の献血は無報酬ですが、もともと健康でないと献血できませんし(元気でないと献血場まで行く気力がない)、簡易健康診断にもなるので定期的にされることをお勧めします。(血液に問題があると献血できません)。

五木寛之は、早稲田大学に入学した当時の昭和27年から28年にかけては生活するのに必死であり、そのため売血もたびたびしていたようです。
「…立石の製薬会社に、しばしば血を売りに行ってピンチをしのいだ。この売血というやつは、肉体よりも、精神に悪い影響を及ばすものらしい。出かけて、二百C。抜いて、手取り 四百円ほどもらってくると、二、三日は働かないで済む。つい習慣性におちいりやすい危険があった。当時の立石は、ひどく荒涼たる感じの土地で、たんばの中に高い煙突の製薬会社が見えた。採血の前に、血液の検査がある。病毒の検査ではなく、比重を調べるのだ。……「はい、合格-」少女は私の二の腕に、ベタリと紫色のゴム判を押す。丸の中に「合」という字を押された私は、顔をほころばせて採血場の方へ向かって歩き出す。裸の腕の○の印を、行列の仲間に誇示しながら、軽い優越感に酔った足どりで歩いて行くのだ。「駄目、足りない」「はい、合格」採血場のベッドに横になり、掌を握ったり開いたりする。そのたびに赤黒い血液が、強く弱く抜けていく。二列に分れたベッドの上で、開いたり閉じたりする数十本の痩せた腕。四百円を握りしめてたんぼ道を帰ると、遠くの景色が傾斜して見えた。もう二度と血を売るのはやめよう、とそのときに考える。だが、またどうにもならなくなると、京成電車に乗るのだった。…」
当時の400円はどの位の価値だったのでしょうか。きつねうどんや天ぷらそばが35円から50円位だったとおもいますので、10倍かなと思ったのですが、消費者物価指数で昭和30年と現在を比べると、6倍位だそうです。このN製薬についてはAさんから教えていただき修正しました。ありがとうございました。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/itsuki-tokyo2.htm

[その他] 時々食べたくなるパウンドケーキ


時々食べたくなるパウンドケーキ。


パウンドとは重量の単位であるポンドの事(ポンドはオランダ語、パウンドは英語)。小麦粉、バター、卵、砂糖の4つの材料を1ポンドずつ使用することから「パウンドケーキ」と名付けられた。カトルカールともいい、こちらはフランス語で4/4の意。4つの材料を1:1:1:1と等量の割合で使うことに由来する。一般的に長方形の型を用いて作られる。

だそうです。

1パウンド=453.592グラムは、覚えられませんね。



[惹句どんどん] 特別編 三方一両損とそのバリエーション

三方一両損

落語。講談(大岡政談)に取材したもの。左官金太郎が3両拾い、落とし主の大工吉五郎に届けるが、吉五郎はいったん落とした以上、自分のものではないと受け取らない。大岡越前守は1両足して、2両ずつ両人に渡し、三方1両損にして解決する。

https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%96%B9%E4%B8%80%E4%B8%A1%E6%90%8D-514820
「デジタル大辞泉」より



三方一両得

「一両損」の模倣犯が「おれなら三方一両得にするがなあ」。つまりこの三両を三人で一両ずつ分ければいいとのこと。
「男1は三両落として戻ってこなかったはずなのに1両戻ったから一両の得」
「男2は拾わなかったら何ももらえなかったのに1両もらったから一両の得」
「お奉行様はどうして一両もらうんだ?」 「それはそれ、お奉行様の手数料さ」

筒井康隆著「横車の大八」(『ビタミン・日本列島七曲り(筒井康隆全集. 第9巻)』より。


三方命得

 2人の男が褒美目当てに、「3両を受け取れ」「いや、受け取らぬ」と争って、大岡越前守に訴え出る。越前守は「三方一両損の判決は誤りだった。私は責任をとって切腹する。

お前ら2人は打ち首だ」と言う。驚愕した2人は、「命ばかりはお助けを」と泣き叫ぶ。越前守は「反省するなら助けてやる」と言い、「お前ら2人は打ち首にならず、私も切腹せず、3人ともに命が助かった。三方命得(いのちどく)だ」と解説する。

『名判決』(星新一『ちぐはぐな部品』)より

[惹句どんどん] 三浦梅園(江戸中期の哲学者)


枯れ木に花咲くに驚くより 、生木に花咲くに驚け

三浦梅園  1723‐89(享保8‐寛政1)
みうらばいえん 

江戸中期の哲学者。名は晋(すすむ)。号は梅園,洞仙,二子山人など。豊後の国東(くにさき)郡富永村(現,大分県東国東郡安岐町大字富清)で名望家の医者の家に生まれ,生涯,医を業とした。かたわら家塾を開き,常時20人たらずの寄宿生がいた。その一生はなんの波乱もなく,伊勢参りに1度,長崎へ2度,旅行したのみ,杵築(きつき)侯その他から出仕の招聘を受けたのもすべて辞退し,郷里を離れたことは一度もない。人となりは温厚篤実で安分知足をモットーとし豊後聖人の称があった。青年時代ごく短期間杵築藩や中津藩の儒臣に入門したほかはまったくの独学であった。ただ,若き日の友人でのちに大坂に出た天文学者麻田剛立(ごうりゆう),大坂懐徳堂の中井履軒とは生涯文通をもった。

 幼時より天地万物あらゆることに疑いを抱きノイローゼを発するほど苦しんだが,20歳過ぎて西洋天文学書によって天地の形体を知るを得,29歳または30歳で〈天地は気なり〉と気づき,つづいてその天地万物に〈条理〉のあることを覚った。かくて条理探究の書《玄語》の稿を起こし,53歳でついに完成した。別に彼が思索の資料とした中国古典,日本・中国の医書,西洋学の書(《天経或問(わくもん)》,《解体新書》,清の梅文鼎の天文学書など)を縦横に引用し批判した《贅語》があり,また人倫哲学の《敢語》がある(合わせて〈梅園三語〉,すべて漢文)。そのほか経済論として有名な《価原》,漢詩概論として中国にも比肩するものなしといわれる《詩轍》など,卓越した著述が多い。《梅園叢書》は穏健な通俗的道徳教訓書である。1912年《梅園全集》上下(計2000ページ)が刊行された。

 難解煩瑣な《玄語》を彼自身が和文で要約した《多賀墨縁君に答うる書》(岩波文庫《三浦梅園集》所収。〈明治以前において真に哲学精神によって貫かれている書物〉(三枝博音))によるとその条理の学(中心は自然哲学)の概要は,(1)天地を達観せんがためには,まず心から習慣による癖(習気)を除去せよ,そして万物万事に疑いを発せよ(〈天地をくるめて一大疑団となしたきものに候〉)。(2)聖賢の言でなく天地(つまり自然)そのものを判断の基準とせよ。西洋におけるごとき実測実験を重視せねばならぬ。(3)かくて探究のための格率は〈反観合一,心の所執(習気)を捨て,正しき徴(証拠)に依る〉である。反観合一とは条理を把握するための方法。(4)条理とは究極の存在者たる気が陰陽二気から成っているのに応じてあらゆる存在(一)は相反するもの(二)の合一である。すなわち〈一二〉の論理に貫かれているということをいう(三枝博音が弁証法哲学として高く評価したゆえん)。(5)万物は,気,物(気の結集体),神(気のエッセンス,エネルギー)より成る。万物は天地という構造をもつ。(6)天地は,時間空間,運動静止,容れる容れられる,明暗乾湿においなど,の4契機より成る。(7)天(自然)と人(人倫世界)は相反するものであるから,その研究法も前者は反観,後者は推観という別個のものでなくてはならぬ。

要するに梅園の哲学はイエズス会士の伝えた西洋天文学(ただし地動説以前の T. ブラーエの段階)その他の諸科学を中国伝統の気の哲学によって解釈し独自の条理哲学をうちたてたもの,気の哲学の最後を飾るにふさわしい壮大精密な体系であるが,あまりに機械的でシンメトリックな論理主義のために気の哲学に固有な宇宙進化論を否定するに至っている。                   島田 虔次

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