『風街ろまん』(はっぴいえんど、1971年)が昨年復刻盤としてアナログ・レコードで再発売されたので入手しました。
発売当時のURCレコードの体裁をそのまま復刻したようで、「(注意)レコードお買い上げ後はただちにこの”タスキ”を破って捨ててください。」とタスキに注意書きが書かれていて、独立レーベルらしい矜持であります。日本ではレコードのプレス機械がなかったようで、イギリスでのプレスになってます。
『風街ろまん』ははっぴいえんどのセカンドアルバム。路面電車が縦横に走っていた高度成長前の東京を「風街」という架空の街にたとえ、その四季を少年の眼を通して唄ったコンセプト・アルバムで、作詞は全編・松本隆さんです。
当方は1971年当時は中学校1年生で、吉田拓郎や岡林信康を聴いていました。はっぴいえんどは岡林のバックバンドという認識でしかなく、アルバムは買ってません。聴いてもわからなかったかも知れません。
大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、という作曲もしてボーカルもこなす3人を擁し、ドラムの松本隆が詩で支える、日本のポップス史上空前絶後の実力バンドですが、時代から早すぎたのか、セールスは芳しくありませんでした。
敬愛する内田樹先生のブログに、フランスの新聞にはっぴいえんどの写真入りの記事が掲載されたというエントリーがあり、この記事がそのままこのアルバムの紹介になるので抜粋します。
2017年の11月22日付けのフランス紙"Liberation" に日本の70年代ポップスについてのOlivier Lammという署名入りの長文の記事が掲載され、その中のはっぴいえんどの部分です。
署名記事はYou Tubeで日本のポップスを発見したアメリカの音楽プロデューサーによるコンピレーション・アルバム「木も涙を流す 日本のフォークとロック:1969―1973」(Even a tree can shed tears: Japanese Folk and Rock: 1969-1973)に触発されたフランスの日本ポップス好きの論者らしいです。
はっぴいえんどは四人の日本ポップスの巨人たちによって始められた。ソングライターの大瀧詠一、ドラマーの松本隆、ギタリストの鈴木茂、飽くことを知らないイノベーターである細野晴臣(細野はその10年後にテクノ・ポップのトリオ、イエロー・マジック・オーケストラを結成することになる)。
はっぴえんどは疑いの余地なく日本のロックを成熟期に導いたグループであった。とはいえ、彼らが実際に活動していた時期(1969―1972)には人気のあるグループではなかった。その点でも、アウトサイダーでありながら、次世代に続く多くの扉を開いたヴェルヴェット・アンダーグラウンドに比較することが可能だろう。David Marxはこう書いている。「はっぴいえんどのメンバーたちはさまざまなバンド、例えばバッファロー・スプリングフィールドの影響下に、欧米の音楽構造とメロディと日本的な感受性との独特のハイブリッドを創り出した。それは60年代のグループが欧米のポップスの様式を機械的に理解し、ほとんどの場合欧米の楽器を使って日本の歌を歌うことに行き着いたのとは対照的であった。」
はっぴいえんどは曲を作り、ライブ活動をし、プロデュースをするかたわら、さまざまなミュージシャンの熟練したバックバンドを務めた。岡林信康、荒井由実(日本のフランソワーズ・アルディ)、伝説の金延幸子(日本のジョニ・ミッチェル、残念ながら最初のアルバムを出した後にアメリカのジャーナリスト、Paul Williams と結婚して音楽の世界を去った)。その要求の高さによって、またその野心によって、とりわけ細野と大瀧によってそれと知られぬうちに行われた忍耐強い作業によって(この二人はやがて実に多様な領域で最も高く評価される作曲家となった)、はっぴいえんどは後に「ニュー・ミュージック」(Jポップの先祖。世界第二位のレコード市場の出現を決定づけた)と呼ばれることになるものの先陣を切ることになったのである。
1970年代始めの日本では、アルバム一枚の価格は労働者の平均給与の一ヶ月分に相当した。ましてや外国のアーティストのレコードを探し出すことは絶望的に困難であった。「よほど有名なアーティストでなければ公式のライセンスを得てレコードを出すことができなかった」とDavid Marxは書いている。「海外の楽曲にアクセスしようと思ったら、外国に行くしかなかった。はっぴいえんどはレコードを買い漁るつもりでロサンゼルスに赴いたのだと思う。
「アルバム1枚が労働者の給与の1か月分」という誤った記述があるものの、大筋においては的確であり、いまさらながらはっぴいえんどの底力が世界に認められたということでしょうか。
というわけでここ数日、細野晴臣さんの『風をあつめて』のフレーズが頭の中を渦巻いているんです。