スローリーディング中の太宰治主要作品。本日は長編の『惜別』(新潮文庫『惜別』(「右大臣実朝」収録)より)を読みました。
『惜別』若き日の日本留学中の魯迅との交流を回想するという筋立ての長編ですが、執筆までの経緯が変わっていて、昭和18年11月の「大東亜会議」宣言を受けて、内閣情報局と文学報国会からの依嘱を受け手の国策小説です。(構想・取材は依頼前からあり)。出版年は戦後の1945年(昭和20年)9月5日、朝日新聞社より刊行というのは皮肉ですが、国策小説を超えた反戦文学という評価をした朝日新聞の慧眼かも知れません。
内閣情報局からの依嘱では50名余の文人が便乗しましたが、実際に作品を仕上げたのは太宰だけでした。(しかも戦後に出版)。
中国の先駆的文学者である魯迅に「知識人の孤独・自意識を秘めた含羞」(奥野建男の新潮文庫解説より)を見出し、自らの出自から親近感を抱いていたそうです。
日中戦争が泥沼化する背景で、何故多数の中国人留学生や亡命者を受け入れていたのか、歴史的な知識がないのでわかりませんが、情報局・報国会が恐らく望んだであろう戦意高揚させる内容と採らず、大東亜会議宣言の欺瞞を逆手に取り、「中国の人をいやしめず、また決して軽薄におだてる事もなく、所謂潔白の独立親和の態度で」描き、結果として「現代の中国の若い知識人に読ませて、日本にわれらの理解者ありの感情を抱かしめ、百発の弾丸以上に日支全面和平に協力あらしめんとの意図」(太宰治自身の前書き)となると、巧妙な反戦小説という骨格が浮かんできます。
太平洋戦争末期の閉塞的な時代で、ほとんどの文人が沈黙を強いられる中、太宰治が例外的に旺盛な執筆を続けていたという理由があるにせよ、キリスト教・左翼思想に傾倒していた心中願望の強い「アブナイ」無頼人に戦意高揚作品を頼まざるを得なかった帝国日本の文化的リソースの欠乏が見えてきます。
私小説的な短編にみられる気の利いた惹句はありませんが、太宰治の複雑な心理を理解する上で、重要な作品なのでしょう。
大東亜会議
だいとうあかいぎ
太平洋戦争中の1943年(昭和18)東京で開かれた会議。この年2月,日本軍はガダルカナル島より撤退,5月にはアッツ島守備隊が全滅するなど,戦局がいよいよ悪化するなかで,大本営政府連絡会議は,戦争完遂の決意と大東亜共栄圏の確立を内外に声明する会議の開催方針を定め,首相東条英機の東南アジア訪問後の10月はじめ,あらためて日本を中核とする政略態勢,日本に対する戦争協力を強化する必要を認め,同会議の具体的要綱を決定した。こうして11月5,6日の両日,東京で開催されたこの会議には,東条をはじめ中国行政院長汪兆銘,〈満州国〉国務総理張景恵,フィリピン大統領ラウレル,ビルマ大統領バモー,タイ首相代行ワンワイタヤコーン,自由インド仮政府主席 S・C・ボースが出席,全会一致をもって大東亜共同宣言を採択した。6日に発表された右宣言は,〈大東亜各国ハ相提携シテ大東亜戦争ヲ完遂シ大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衛ヲ全ウシ〉,(1)道義に基づく共存共栄の秩序の建設,(2)自主独立の尊重と互助敦睦,(3)伝統の尊重と民族の創造性の伸暢,(4)互恵的経済発展,(5)人種差別の撤廃,文化の交流と資源の開放を綱領とする大東亜の建設を期すとうたっており,外相重光葵は1941年連合国が発表した大西洋憲章と同一の精神に出たものとしている。
馬場 明
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魯迅 1881‐1936
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中国の文学者,思想家。本名周樹人,字は予才。その弟に周作人がいる。浙江省紹興の裕福な官僚地主の家に生まれたが,少年期に家が没落して辛酸をなめたことが,最初の現実覚醒の契機となった。やがて,清末に流入した進化論をはじめとする西欧啓蒙思潮の影響を受けつつ日本に留学,はじめ民族救済の道を医学に求め仙台医学専門学校に籍をおくが,弱小民族として差別される経験を重ねるうち文学に傾斜し,東欧被抑圧民族の文学を訳出する。帰国後,郷里での教員生活中に迎えた辛亥革命(1911)に大きな期待を寄せるが,革命は挫折し,深い絶望を味わう。やがて教育部の一役人として北京に出た魯迅は,数年におよぶ絶望の沈黙のはてに最初の小説《狂人日記》(1918)を発表する。狂人の心理を借りて〈人が人を食う〉半封建・半植民地の現実を鋭く暴いたこの小説は,従来なかったまったく新しい近代文学の形式と内容を中国文学の世界に切り開いた。これにつづけて,《孔乙己》《故郷》《祝福》などの佳作をつぎつぎに発表した。なかでも唯一の中編《阿 Q 正伝》は,一人のルンペン農民の形象を民族の典型にまで高め,〈阿 Q 精神〉なることばを生んだ。また,彼の詩人的資質の結晶として,散文詩集《野草》が書かれた。
1920年以降は,北京女子師範その他で教鞭をとったが,その講義録は《中国小説史略》として出版され,これ以後古典文学の研究もその仕事の重要な一部となった。26年,三・一八事件(不平等条約の撤廃を要求してたちあがった民衆運動に対する段祺瑞政府の弾圧事件)で北京を脱出した魯迅は,厦門(アモイ),広東をへて上海に落ち着くが,北伐革命の挫折とそれにつづく国民党による白色テロを目撃したことで思想的に深い衝撃を受け,マルクス主義に接近し,独特のしかたでそこから栄養を吸収した。この間,自分を攻撃する論敵との論戦を通じて,〈雑感〉とよばれる鋭い閲首(あいくち)のような独自のエッセーのスタイルを創出した。30年に中国左翼作家聯盟が成立すると,実質的にその指導者となったが,これ以後その死までの6年間,芸術至上主義や民族主義の仮面をかぶった正面の敵のみならず,セクト主義や極〈左〉主義など革命陣営内部の敵とも不寛容に闘いつづけた。さらに数多くの雑誌や叢書を編んで新人の養成につとめるかたわら,木刻(版画)の振興に情熱を燃やし,その基礎をすえた。このほか,多数の翻訳の仕事がある。これらは,国民党の白色テロルの脅威と重い結核という悪条件の下でなされた。
その死は全国の各階層の人々から哀悼され,その葬儀は〈最初の民族葬〉と呼ばれた。その死後,〈魯迅精神〉は中華民族を励ます合言葉として,現在も生きている。作品集は,《魯迅全集》20巻が38年に出版されたが,新中国になって詳細な注釈つきの《魯迅全集》10巻が出版され(1958),さらにそれを全面的に改訂した《魯迅全集》16巻が生誕100周年を記念して81年に出版された。
日本における魯迅の翻訳紹介では,《大魯迅全集》(全7巻。1937)が最初のまとまった画期的なものであった。研究書としては,竹内好《魯迅》(1944)が,アジアの被抑圧民族の悲哀と苦悩を象徴する知識人としての魯迅の像を,アジアの中の日本に生きる竹内自身の苦悩に重ね合わせて描き,その後の魯迅研究に大きな影響を与えた。戦後は,《魯迅選集》(全12巻。1956)をはじめ,各種の選集が出版され,研究者の数も増えて研究は精緻になり,研究の中心はしだいに実証面にむかいつつある。81年に出版された16巻本の《魯迅全集》の全訳が刊行中だが,その完成によって,日本における魯迅の紹介も一区切りがつくであろう。 吉田 富夫
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孫文 1866‐1925
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中国の革命家,政治家。中国国民党の創設者,指導者。中華民国の創始者として国父と称された。字は逸仙,号は中山(欧米ではしばしば SunYat‐sen と呼ぶ)。広東省香山県(現,中山県)翠亨村の貧しい農家に生まれ,12歳のとき出稼ぎで成功したハワイの長兄のもとに行き,教会学校で西欧の近代教育をうけた。16歳のとき帰国,香港で洗礼を受け,広州の博済医院の付属医学校で医学を学んだ。この学校で反満秘密結社三合会の首領苫士良(1863‐1901)と知り合った。後の革命活動において苫士良は孫文をよく助け,会党工作の責を果たした。1887年香港の西医書院に在学中,陳少白らのいわゆる〈四大寇〉と交わった。時あたかも清朝はベトナムの宗主権をめぐるフランスとの戦いに敗れ社会変動の波が押し寄せつつあった。こうしたなかで孫文は憂国救国の思いにかられ,ついに革命を決意した。92年澳門(マカオ),広州で開業したが,やがて医業を離れて革命運動に専念し,94年ハワイで革命秘密結社興中会を組織した。95年広州で最初の武装蜂起を企てたものの失敗し,日本に亡命した。その間,横浜に興中会分会を組織したあと,96年ロンドンに行き,清国公使館に監禁された。しかし奇跡的に救出され,革命家として一躍有名になった。ヨーロッパ社会を実際に見て,民生問題の重要性に気づき三民主義の構想を練った。97年日本にもどり宮崎滔天,犬養毅らを知り,東京,横浜に居住した。99年犬養,宮崎,平山周,内田良平らとフィリピン独立運動を援助したが失敗。1900年厦門(アモイ)出兵をねらう日本軍部からの武器援助の密約に期待して恵州蜂起を企て,失敗を重ねた。武装蜂起を最重要視した当時の孫文の革命路線の典型的な例であった。
このころ,衰退をつづける清朝の新政を求める立憲改良派と革命派は中国の将来をめぐって論戦を交えていたが,05年東京で革命3派(興中会,華興会,光復会)は合同して中国同盟会を結成した。孫文は総理に選ばれ,機関誌《民報》を発行して三民主義を発表した。06年《革命方略》を明らかにし,共和国建設の順序として軍法の治,約法の治,憲法の治の3期に分けた。11年10月辛亥(しんがい)革命が勃発するとアメリカから帰国し,臨時大総統に選ばれ,12年1月中華民国が発足したが,南北妥協の結果,袁世凱が大総統に就任した。袁世凱は独裁支配を強化し宋教仁を暗殺したので,孫文は第二革命を起こしたが敗れ,日本に亡命のやむなきにいたった。14年国民党を改組して中華革命党を組織し,日本の政界,軍部,実業界などから援助を得ようとしたが成功しなかった。しかし15年末第三革命を起こし袁世凱の帝制運動を挫折させた。17年から護法運動を展開するなかで広東政府を樹立して反動軍閥との戦いを続けた。19年,学生,民衆による五・四運動は北京,上海等の諸都市で愛国闘争をくりひろげた。この闘争から孫文は民衆を革命の担い手とする必要性を痛感し,10月中華革命党を改組して公開の政党中国国民党を組織した。ロシア十月革命後のソビエトへの思想的共鳴を深める一方,21年に創設された中国共産党との提携を積極的に進め,共産党もコミンテルンの方針に従い国共合作に踏み切った。23年コミンテルン派遣の M. M. ボロジンを国民党の最高顧問に任命し,国民党改組宣言を発表して反軍閥・反帝国主義を国民党として初めて公然と掲げるにいたった。
24年1月中国国民党第1回全国代表大会は連ソ,容共,農工援助の三大政策を決定し,軍閥の背後に帝国主義列強が存在して中国の内乱を作り出しているとして,反帝国主義・反軍閥を明確に表明した。1月から8月まで三民主義講演を行い,三民主義の目標は滅亡に采している中国を救うための〈救国主義〉であると強調。4月《国民政府建国大綱》を発表して三民主義と五権憲法(立法,司法,行政,監察または弾劾,考試)に基づいて中華民国を建設すること,建設の順序は(中国同盟会時期の《革命方略》を発展させて)軍政時期,訓政時期,憲政時期の3段階とすることを定めた。11月日本を訪問し,神戸で〈大アジア主義〉の題で講演し,欧米の覇道と東洋の王道を対置し,ソビエトを王道国家とし,アジアの被圧迫民族を解放するため日本が覇道を捨てて王道に帰り不平等条約を廃棄するよう求めた。25年3月北京の病床にあって国民党への遺嘱をつづり,〈世界でわれわれを平等に待遇する民族と連合し,共同して奮闘す〉べきこと,〈革命はなおまだ成功していない〉ので建国方略,建国大綱,三民主義,国民党第1回全国代表大会宣言に基づいて努力を続け,国民会議開催と不平等条約廃棄を最短期間に実現すべきことを訴えた。遺骸は北京から南京郊外の紫金山の中山陵に移され葬られた。
藤井 昇三
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太宰治 1909‐48(明治42‐昭和23)
だざいおさむ
小説家。本名津島修治。青森県生れ。東京帝大仏文科中退。津軽屈指の大地主の六男として生まれたことが,この作家の生涯と芸術に決定的な影響を与えた。中学時代から文学に親しみ,旧制弘前高校に入って左翼思想に接し,大地主の子であることに屈折した罪意識を抱くようになった。1930年に東京帝大仏文科に進み,井伏箆二に師事する。この年から非合法運動に関係するようになった。同年,青森の芸妓小山初代と結婚するが,その直前にバーの女給と心中をはかり女だけが死んだ。この事件は,非合法運動からの離脱とともに彼の心に終生消えぬ〈黒点〉を残した。35年,《逆行》によって第1回芥川賞候補となり,36年第1創作集《晩年》を刊行。その後,麻薬中毒になり,錯乱した内面を《HUMAN LOST》(1937)などの前衛的な方法で表現したが,初代と離別し石原美知子と再婚するころから,《富嶽百景》《女生徒》(ともに1939)など平明な作風に移り,《走れメロス》(1940)などの好短編も生まれた。第2次大戦中は《右大臣実朝》(1943),《お伽草紙》(1945)などの翻案的佳作を書くとともに,《津軽》(1944)のような名作を残した。戦後は戯曲《冬の花火》(1946)などで便乗思想を批判する一方,《ヴィヨンの妻》(1947)など既成倫理に反逆するような短編を発表。滅びゆく高貴なものへの恐歌《斜陽》(1947)で流行作家になったが,人間恐怖の自画像《人間失格》(1948)を残して山崎富栄とともに入水して果てた。 東郷 克美
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