2026年9月9日水曜日

[晴れときどき英語のお勉強] 『Mr.Evineの中学英文法を修了するドリル』(Evine著、アルク)




 14:37 2026/09/08

p190

Lesson 25 現在完了形 その2 継続と経験


[今日のポイント!]


「16年間、英語を勉強しています」


(×)I'm studying English for 16 years.

(〇)I have studied English for 16 years.



[現在完了 継続・経験用法]


(1)過去のある時点から現在まで、継続している習慣や状態

(2)現在までに経験した出来事


継続 ずっと~している since, for

経験 ~したことがある ever, never, before



[継続用法]

現在進行形と現在完了形(継続)の違い


I am studying English now.…「今現在」の一時的な進行状況

I have studied English for 16 years.…過去から現在まで一定期間継続している


現在完了と現在進行形の関係


過去 今現在


→→→→→→→→→→→→→→→ 現在完了形


→→→→→ 現在進行形



[forとsince]

現在完了の継続用法でよく使われる単語


for + 期間

since + 過去を示す単語、時を示す英文


I have lived in Tokyo for 5 years,.

You have studied English since 2003.

He has studied English since he came here.


(×)I have studied English for 2003.

(×)I have studied English for I came here. …forは接続詞としては機能しない


現在完了形の継続用法では「継続」のニュアンスを持っている状態動詞がよく使われる


She has been a teacher for 5 years.

We have known each other since last year.



[継続期間を尋ねる]


He has studied Japanese for 10 years.


How long has he studied Japanese?

for ten years が how long に変わり、文頭に移動

助動詞has と主語heが入れ替わり、疑問文となる



[経験用法]

(a)I climbed Mt. Fuji yesterday.…単純過去

(b)I have climbed Mt. Fuji before.…現在完了の経験


経験用法でよく使われる単語

ever, never, before


Have you ever watched his movie?

Yes, I have.

No, I have never wathched this movie.


経験用法を使うと、経験談やアドバイスを続けることができる

I have met the lady before. She may make you angry because she is very rude.



[経験?結果?]

She goes to Kyoto.

(△)She has gone to Kyoto.

「彼女は京都に行ってしまった(今はここにいない)」…結果


She has been to Kyoto.

「彼女は京都に行ったことがあります(今はここにいる)」…経験


Has she ever been to Kyoto?

No. She has never been to Kyoto.


「行ったことがある」(経験)はbe動詞の過去分詞で表現する



[経験回数を尋ねる]

経験の頻度や回数を尋ねる疑問文


How many times have you played golf?…回数を尋ねる

I have played golf three times.


How often have you watched it?…頻度を尋ねる

I have watched it many times.



経験回数を表す語句

once, twice, 数字+times, many times



[新聞記事]

 



[新聞記事]

 


2026年9月6日日曜日

[シニアの自己啓発] 9月7日(月曜日)有料自習室で全国通訳案内士(日本歴史)の勉強をしました(予定)

 


[その他] 9月7日(月曜日)ヤマハ・ドラム教室

 練習曲が変わりました。

『君の瞳に恋してる』。



[晴れときどき英語のお勉強] 『英語で話す力』(長尾和夫+アンディ・バーガー著、三修社、2025年)

 


p332

Unit 46 Are you concerned about Japan’s low food self sufficiency rate?

日本の低い食糧自給率について心配してますか?

主張A 賛成 温暖化や戦争などで大惨事になりかねない


I think Japan’s low food self sufficiency could be a huge problem for us in the near future.

Global climate change is one concern. I have heard that major food producers like the United States and Canada will be affected by global warming. If their supply of food shrinks, they will have to use what they have to feed their own people, not Japan’s.

IF other types of disasters happen, such as a major war, Japan might also find it difficult to bring food into the country.

Japan has the lowest food self sufficiency of all developed countries, and it has steadily decreased. It is about 40% now.

We could be facing a terrible tragedy if we don’t do something to raise that figure.


主張 B 反対 得意とする製品輸出で食糧確保はできる

I think the fears about Japan’s low food self sufficiency are exaggerated. It might be true that Japan’s rate is lower than many countries, but we are not the only country facing this problem. 

Furthermore, the population of Japan is set to decline, which means there will be less mouths to feed in the coming decades.

My main point is that Japan has the ability by buy food on the world marked. We can’t change the fact that our country is small and covered with mountains. But we can make sure that we always have plenty of money to pay for the food we need.

That money comes from doing the things that we do best, providing the world with products it needs.

As long as Japan keeps on being Japan, we will have plenty of food, because we will have great products to exchanges for it.


主張C 中立 食物生産と輸入のバランスを取るべき

I think Japan needs to do a few things to ensure food security.

The first is to improve our agricultural methods. Our current system of using farmland is very inefficient. Most of our farms are small, and farming methods are not modern. We need to take advantage of all the available technology that increases crop yields. 

We need to transform farming in this country so that dedicated young professionals can replace the older generation of farmers as they retire. 

The other thing we need to do is find a better balance between protecting our own food industries and allowing food to come in from outside.

This might involve adjusting our trade policies, and doing our best to maintain friendly relationships with food rich countries.

  


[その他] 『週刊文春』最新号の表紙

 すみません。パン好きなもので。

和田誠さんの表紙を見ることができないのは残念ですが。

このイラストもなかなか秀逸。



[その他] パスポートのオンライン申請してみました。。。

 甥の結婚式で2027年3月、ハワイに行く予定。

当方のパスポートが2027年2月で切れることが判明。




本日はメンテナンス中だそうで、明日また挑戦してみます。


[新聞記事] パスポートが映す「縮む国」保有4割減 

ちょっと古い記事ですが。『何でも見てやろう』精神今いずこ?


 国会で近く2025年度予算案が衆院を通過する見通しとなった。少数与党の石破茂政権は予算案への賛成を取り付けるべく、主要な野党の主張の取り入れに躍起だ。国会審議で日本の競争力や将来像といった議論は鳴りを潜めている。


内需が円安と相まったインバウンド(訪日外国人)頼みになりつつある一方で気がかりな数字がある。


日本人の6人に1人しか旅券(パスポート)を持っていない――。外務省が2月に発表した旅券統計によると、24年末時点で有効なパスポート数は2164万冊で、05年の3493万冊から4割近く減った。05年は27%だった人口あたりの保有率も17%まで落ちた。


新型コロナウイルス禍の影響という説明だけでは不十分だ。米国の保有率はむしろ上昇し、05年時点で2割ほどだったが今は5割近くになった。日本旅行業協会(JATA)によると、韓国は4割、台湾も6割と日本を上回る。


24年11月の自民党の政策懇談会。JATAなどは若者へのパスポート無償配布を提起した。議員側の反応は薄く、議論も深まらなかった。少数与党となった党内で中長期的な課題を話し合う雰囲気は乏しい。


「将来国際舞台で活躍できる人材育成の観点から憂慮すべき状況だ」。JATAの高橋広行会長(JTB会長)は1月の記者会見で「日本の国際競争力の低下を招きかねない深刻な問題だ」とも訴えた。


パスポート保有率の低さは「縮む国・日本」を映す。日本人の内向き志向のあらわれだとの見方もあるが事態はもう少し深刻だろう。


外務省の海外在留邦人数調査統計をみると、期限を定めずに外国に在留する「永住者」の数は24年まで20年間以上、前年比プラスで推移する。永住者は主に北米や西欧といった高所得国で増えている。女性の伸びが男性を上回る。


海外在留者を年代別でみると17年時点で30〜40代が特に多かった。近年は内訳を公表していないが、福井県立大の佐々井司教授(人口学)は「傾向は今も大きく変わらない」とみる。


もちろん海外で活躍する人が増えるのは歓迎すべきだ。現役世代を中心に閉塞感を感じる人たちが日本を離れ、海外に活躍の場を求める様子も透ける。


日本経済新聞の世論調査の政党別支持率で10〜30代は特定の支持政党を持たない無党派層の割合が最も大きい。直近の2月の調査でも27%と、自民党の22%を上回った。


行き場のない閉塞感は安易なポピュリズム(大衆迎合主義)と結びつきやすい。平時だけでなく選挙期間中もSNS上で扇動するような玉石混交の情報が飛び交う現状はなお危うい。


ポピュリズムに陥らないためには政治家が希望を持てる将来像を示す必要があるが、足元の国会審議をみるに与野党のいう「熟議の国会」は名ばかりだ。


「年収103万円の壁」の問題や高校授業料の無償化の是非、高額療養費制度の負担のあり方といった大切な政策に関し、連日の政党間協議で日替わりメニューのように内容が変わる。


夏の参院選向けのアピール合戦の様相だが、有権者は与野党双方を冷めた目でみているのではないか。


パスポート保有数は減り、海外に出た人は戻ってこない――。若者が大都市に出たまま帰って来ず、地方が過疎化していく国内状況とどこか似る。首相は地方創生を巡り「若者と女性に選ばれる『楽しい地方』」を掲げるが、国レベルでも同じことが言えるだろう。


必要なのは日本と日本人がどうやってグローバルな競争力を取り戻すかだ。与野党がそうした議論で競わない限り、将来を担う若者の視界は開けない。


(宮坂正太郎)

[新聞広告] 和菓子歳時記 九月 小芋 <こいも> 

 





[その他]「オサムグッズ(OSAMU GOODS)」の誕生50周年を記念した限定バッグ

 蔦屋書店で発売中。欲しいけど、あまりモノを増やしたくないけど。思案中。




[惹句どんどん] バウハウス(ドイツの美術工芸学校)

 



バウハウス  

 Bauhaus


1919年,ドイツのワイマールに設立された美術工芸学校。25年デッサウに移り,33年ベルリンでナチスによって解散させられる。同校における教育・造形活動は,近代デザイン,建築に重要な影響をあたえた。

[ワイマール時代]  バウハウスがワイマールに誕生する一般的な背景には,20世紀のはじめ以来のドイツの建築,工業デザインの発展がある。創設者 W. グロピウスはこの新しい傾向のなかでももっとも際だった存在で,ファグス靴工場(1911),ケルンのドイツ工作連盟博覧会(1914)の建築で,新しい建築言語を確立していた。現実的には,ワイマール工芸学校の校長であった H. バン・デ・ベルデが第1次大戦の勃発によって敵国人になったため,後事をグロピウスに託そうとしたことからはじまる。グロピウスは大戦中に学校側から交渉をうけ,大戦後の1919年に校長に就任,大公アカデミーと工芸学校を併合して,25年〈ワイマール国立バウハウス Staatliches Bauhaus,Weimar〉と改称した。後年,バウハウスをめぐる政治的な論争の種はすでにそのときにあった。バウハウスの〈バウ〉は〈建物〉の意であるが,同時に,種をまき,育てるという含意もあった。

 グロピウスの最初のマニフェスト(1919)で明らかにされたように,バウハウスにおいてはあらゆる造形活動は窮極的に建築に統合されるという考え方があったが,J. イッテンの提案した〈予備過程Vorkurs〉がその教育の特色をなすようになった。最初に招いた教授はイッテンのほか,マルクスG. Marcks,ファイニンガー L. Feininger,マイヤー A. Meyer で,ついでムッヘ G. Muche,O. シュレンマー,P. クレー,W. カンディンスキー,さらに L. モホリ・ナギ等が招聘(しようへい)された。イッテンは23年にバウハウスを去るが,広い視野で造形の基礎的探究が中心に据えられたのはイッテンの功績である。バウハウスのこの時期の特色は機械的な生産よりも職人的技術の習得に力が入れられ,造形マイスターと技術マイスターの共同で運営される家具,金工,陶器,ステンド・グラス,壁画などの各工房が理想的共同体を目ざして設置された。新しい製品の開発,生産活動も行われたが,それはバウハウスを支える経済的な基盤にはならず,同校はワイマール市の財政援助によって成り立っていた。

[デッサウ時代]  バウハウスは当時の最も先端的な芸術家を集め,またグロピウス自身,政治的に急進的な建築家のグループのメンバーでもあったこともあって,同校は最初から民族主義的・保守的な建築家,ジャーナリズムの攻撃をうけた。また時代の社会的状況もたえずバウハウスを圧迫する。ついに1924年末,バウハウスはワイマールにおける活動を停止せざるをえなくなるが,それを救ったのがデッサウの市長 F. ヘッセであった。25年バウハウスはデッサウに移り,翌年グロピウスの設計した新校舎,教員住宅が完成。バウハウスの名は,幾何学的形態,機能主義と結びついて〈バウハウス様式〉の名で大衆にも知られるようになるが,それはグロピウスらの意図するところではなかった。このころからバウハウスの卒業生が教授陣に加わりはじめる。タイポグラフィーと広告の部門を築いた H. バイヤー,家具に新境地をひらいていた M. L. ブロイヤー,彫刻のシュミット J. Schmidt らである。

 バウハウスはワイマール時代には建築の部門をもっていなかったが,27年グロピウスは建築部門を設けるとともに,スイス人の建築家マイヤー Hannes Meyer(1889‐1954)を招いた。グロピウスとマイヤーとの考え方にはかなり相違があったはずで,このいきさつはいまひとつ明らかでない。28年グロピウスが退き,マイヤーが校長に就任する。マイヤー時代に,バウハウスはグロピウスの精神を継承しながら,さらに社会的生産,機能性の重視の方向に近づいた。この時代にヒルバーザイマー L. Hilberseimer,ペーターハンス W. Peterhans が教授陣に加わって都市計画と写真の専門クラスができる。しかしマイヤーの政治的思想は,バウハウスの敵対者の攻撃の火に油を注ぐ結果になり,30年彼は退任を余儀なくされ,L. ミース・ファン・デル・ローエが後任の校長になる。この間,26年には雑誌《バウハウス》が創刊され,25‐30年には《バウハウス叢書 Bauhausb‰cher》(14冊)が刊行された。

[閉鎖以降]  デッサウ市の評議会はやがてナチスに牛耳られ,1932年にバウハウスの解散を決議する。ミース・ファン・デル・ローエはバウハウスをベルリンに移し,〈私立バウハウス〉として存続をはかるが,33年ナチスの政権獲得とともに,ついに閉鎖され,教授陣の多くは海外に移住した。これによってドイツでのバウハウスは終わったが,グロピウス,モホリ・ナギ,ミース・ファン・デル・ローエ,アルバースらはそれぞれの移住先で,その教育方針を継承することになる。とりわけ,モホリ・ナギが37年シカゴに創設した〈ニュー・バウハウス〉(現,インスティチュート・オブ・デザイン)は,アメリカにおけるデザイン教育の中心となった。

 バウハウスに対する評価は,それにつづく時代によって影響をうけざるをえない。〈近代〉というおおまかな概念のもとにバウハウスの思想,デザインの方法などが一括して葬られる傾向がなくはないが,20世紀における芸術,社会,思想をとらえるうえで,バウハウスに対する研究,評価はむしろ今後に残されているといってもよい。それは,バウハウスが探究した視覚,言語,空間や運動,身体などの問題が現在も課題として残されているからである。なお,バウハウスに学んだ日本人生徒として山脇巌,道子夫妻,水谷武彦がいる。

                        多木 浩二


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