2021年5月2日日曜日

[積読立読斜読] 『蘆刈』(谷崎潤一郎、1932(昭和7)年)





 年間スローリーディング中の谷崎潤一郎主要作品。参考書は阿刀田高さんの『谷崎潤一郎を知っていますか 愛と美の巨人を読む』(新潮社、2020年)です。


本日は『蘆刈』を読みました。テキストは池澤夏樹個人編集の日本文学全集(全30巻)の谷崎潤一郎の巻(2016年、河出書房新社)から。


『蘆刈』は1932(昭和7)年、谷崎潤一郎四六歳、雑誌『改造』に二か月に渡って掲載された中編です。頁数で50頁ほど。


<あらすじのようなもの>

関西に移住した語りて(作家)は天気の良い9月の昼過ぎに散策することになり、近隣の水無瀬の宮に出かけた。存外に長居をすることになり淀川の渡しの中州で月見をすることに。という前半部分は紀行文のような筆致。この中州で見知らぬ男から問わず語りの物語がこの『蘆刈』の骨子で、男の母と父と、母の姉の奇妙な三角関係(父は姉に恋しており、姉は後家で貞操を守り、父の姉の危険な関係を曖昧にするために父と偽装結婚した母)を背景に、美しい王朝の貴婦人を思わせる、叔母の思いでを語る、という構図。男の語る時制がつじつまが合わないので問い詰めると、いつの間にか霞に消えていた、という幻想的な最後です。前半部分のいささか退屈な紀行文は、王朝時代から続く、関西の風土を読者に理解させることによって、よりクライマックスの幻想性を際立たせる趣向かと。


文体は句読点のほとんどない、ひらかなを多用した非常に読みにくい文で、幽霊の男からの語り、という趣向かと思います。朗読で聞いた方がいいのかも知れません。


谷崎潤一郎の作品としては、あまり著名な作品ではないかと思われますが、全段と後段の構図、後半の語り手の移動(男、父、叔母、母)、昼から夜への景色、等々、円熟した文豪のテクニック満載の佳品でした。


形態としては能の夢幻能の形式だそうです。


阿刀田さんの寸評も高い評価で『春琴抄』と同じポイントでした。


<メモのようなもの>(頁数は河出書房新社版の全集)

P393

父にいわせますと目鼻だちだけならこのくらいの美人は少なくないけれども、おゆうさまの顔には何かぼうっと煙っているようなものがある、顔の造作が、眼でも、鼻でも、口でも、うすものを一枚かぶったようにぼやけていて、どぎつい、はっきりした線がない、じいっとみているとこっちの眼のまえがもやもやと翳って来るようでその人の身のまわりにだけ霞がたなびいているようにおもえる、むかしのものの本に「蘭(ろう)たけた」という言葉があるのはつまりこういう顔のことだ。


P408

それはたしかに、お遊さんの心のおくへ這入ってみましたら自分で自分にゆいまわしていた埒が外れてしまったような気持ちのゆるみができまして妹の心中だてを憎もうとしても憎めなんだのでぼざりましょう。



P415

普通のおんななら恋に死ぬのがあたりまえかもしれないがあなたという人にはありあまる福があり徳ががある、その福やら徳やらをすてたらあなたのねうちはないようになります。



P481

『蘆刈では母への思慕は父を経由して二段階の構造になっている。普通ならばあり得ない姉妹がらみの恋の話が、お遊さんのことを男が父から聞き、それを作家である自分が淀川の中州で男から聞くという仕掛けを通じて読者のもとに届く。しかも終わりのところで

(池澤夏樹の解説)


P471

『卍』も『蓼喰う虫』も『猫と庄造と二人のをんな』も『細雪』も関西というトポスを前提にしなかれば生まれ得なかった作品である。

(池澤夏樹の解説)





<夢幻能>

能の分類名。〈現在能〉と対立して能を二大別する。能を代表する形式で,初番目物の大半,二番目物のほとんどすべて,三番目物の多く,四番目物・五番目物の一部が夢幻能形式をとる。典型的夢幻能とは次のようなものである。(1)超現実的存在の主人公(シテ。神,男女の霊,鬼畜の霊,物の精など)が,名所を訪れた旅人(ワキ。僧侶や勅使など)に,その地にまつわる物語や身の上を語るという筋立てをもつ。(2)前後二場に分かれ,同一人物が前場(まえば)は現実の人間の姿(化身)で,後場(のちば)はありし日の姿や霊の姿(本体)で登場する。ただし,《清経》《経正》《西行桜》のような,本体のみ登場する一場物の夢幻能も若干ある。(3)脚本は,ワキ登場――シテ登場――ワキ・シテ応対――シテの物語――シテの中入(なかいり)の五段構成を前場にとり,後場もこれに準じる。構成の頂点は,前場のシテの物語と後場のシテの仕事(過去の仕方話的再現や舞事(まいごと))である。(4)シテの演技が中心になるように作られている(主役独演主義,シテ中心主義と称する)。つまり,ワキはシテの対立者ではなく,シテの演技を引き出すのがおもな役割である。〈夢幻能〉の名称は,全体がワキの見た夢や幻想だと考えられる(曲中に夢であると明示する場合も少なくない)ことから付けられた。なお,夢幻能と現在能の中間的性格をもつ作品もある。そのうち,ほぼ夢幻能に準じる《葵上(あおいのうえ)》《昭君(しようくん)》《道成寺》等を準夢幻能,《恋重荷(こいのおもに)》《砧(きぬた)》《舟弁慶》のように前半が現在能的で後半が夢幻能的な作品を現在=夢幻能と称することもあるが,作品によって性格が一様でないため,分類は困難である。また,鬼退治の能や霊験能は,超現実的存在がシテではあるが,全体の筋立てからみて現在能に分類するのが通例である。

 観阿弥(1333‐84)時代にはまだ夢幻能は成立していなかったらしいが,現実の場に神や鬼や霊の本体が出現する作はあり,そうした形態から夢幻能が形成されたと推定されている。夢幻能の成立事情に関しては,さまざまな角度からの考察がある。たとえば,憑物(つきもの)の形で過去の人物を描く形態が先行し,やがて過去の人物そのものを登場させるようになったとの説(前場の化身と後場の本体は,憑かれる者と憑く者を分離させたところに生じたとの見解もある),罪障懺悔(ざいしようさんげ)のために過去を語り演じるような形態が徐々に宗教色を薄めて,夢幻能の特徴である過去再現の構想が完成したとする説などである。また,延年小風流(えんねんしようふりゆう)の神霊影向(ようごう)形式や,現世で合戦に従った者の亡霊が死後の苦しみを訴える説話類が,それぞれ脇能と修羅能(修羅物)の成立に影響を与えたともいわれる。

 作劇法の面から見た場合,歌舞的統一体として能を完成させるために考案されたのが夢幻能形式だったと考えられる。その考案者は明確でないが,多くの優れた夢幻能を制作して様式を完成させたのは世阿弥である。世阿弥は,夢幻能の作劇法を理論化した著書《三道(さんどう)》(1423)で,能の構成を序一段・破三段・急一段の序破急五段としたうえで,各段の演技内容や音曲の基準を示し,さらに一曲の本説(ほんぜつ)(中心的典拠。一曲の物語的内容でもある)を音楽的にも面白く表現する聞かせどころ(開聞(かいもん))を破の部分に,シテの舞や働(はたらき)による見せどころ(開眼(かいげん))を急の部分に配置せよと述べている。ここから,舞歌を中心とした一定の音楽的様式の中に物語的内容を盛り込もうとする意図が読み取れる。舞歌に縁ある人物を主人公にせよと同書で力説するのも,その人物の物語が必然的に舞歌と結びつくからにほかならない。結局,夢幻能は音楽的・舞踊的であると同時に,物語的・劇的であることを追求した結果生み出された能独特の劇形態であったといえよう。なお,世阿弥の代表的夢幻能には次のような諸曲がある(改作も含む)。初番目物《高砂》《弓八幡(ゆみやわた)》《老松(おいまつ)》《箱崎》《鵜羽(うのは)》(末2曲の女体神能は廃曲),二番目物《実盛》《忠度》《頼政》《敦盛》,三番目物《井筒》《檜垣(ひがき)》《江口》《松風》,四番目物《通小町(かよいこまち)》《舟橋》,五番目物《鵺(ぬえ)》《野守(のもり)》《山姥(やまんば)》《融(とおる)》。

 いずれも定型的脚本様式を踏まえながら,素材や主題に応じた変化がみられ,主題,文辞ともに完成度の高い傑作ぞろいである。

 世阿弥以降も夢幻能は能作の中心,または基本であった。世阿弥の子息観世元雅(もとまさ)作の夢幻能は,彼が早世したこともあって《吉野琴》(廃曲)1曲しか確認できないが,女婿にあたる金春(こんぱる)禅竹には《定家(ていか)》《芭蕉》《玉損》などがあり,花やかさを押さえた寂寥(せきりよう)感の漂う作風を特色とする。作者不明の《野宮(ののみや)》《東北(とうぼく)》《三輪》など,今日上演頻度の高い女能も世阿弥以後の作のようである。初番目物では,観世信光作《九世戸(くせのと)》や金春禅鳳(ぜんぽう)作《嵐山(あらしやま)》,観世長俊(ながとし)作《江野島》といった,世阿弥作とは異なる風流性の強い能が室町後期を中心に作られた。また,夢幻能の作劇法は現在能にも応用された。世阿弥が完成した物狂能は歌舞能という点で夢幻能と共通するが,世阿弥以後になると,物狂能以外にも舞歌を基本とする現在能(《熊野(ゆや)》《楊貴妃》等)が制作されたことが指摘されている。ところで,夢幻能は様式的完成度が高かっただけに固定化しやすく,形式のみ踏まえた安易な作を生む危険性や,自由な構成や構想を生み出しにくい面があった。能作の真の発展が室町後期以後ほぼ止まった原因の一端はここにあろう。

 対立する人物の損藤(かつとう)を軸として展開する劇(現在能は多少なりともこうした手法をとる)に対して,夢幻能は舞台上に対立者のいないシテ1人の劇であり,祝言を目的とした初番目物を除くほとんどが,回想的語りを通じて描かれる内面劇である。すなわち,過去の出来事を回想することによって主人公の内面が動かされ,その思いがさらに過去を呼び起こすというように,過去と現在が自由に交錯しつつ,そこに生起する心の動きそのものが劇となっているのである。近年,劇としての能を見直す動きが高まり,能の作劇法と演技はヨーロッパや日本の現代演劇に多くの刺激や影響を与えてきた。その中心となったのが夢幻能であり,とりわけ,〈意識の流れ〉を顕在化する手法は,内外で高い評価を受けている。⇒現在能∥能

                        小田 幸子


(C) 1998-2002 Hitachi Systems & Services, Ltd. All rights reserved.