2021年5月29日土曜日

[積読立読斜読] 『この世界の片隅に(中)』(こうの史代著、双葉社、2008年) 第25回 昭和20年2月

 




昭和20年2月、雪の日、すずさんが朝日遊郭の遊女りんさんを訪ねる回です。すずさんは遊女を見下した態度を決して取らず純真無垢な感じです。北條家に嫁入りした「世界の片隅」と朝日遊郭の遊女の「世界の片隅」は同じという心情だったのでしょう。

戦前の遊郭は県の認可制であり、先進国ではめずらしい公娼制度がありました。

貸座敷  
かしざしき 
会合などのために有料で部屋を貸す貸席の意であるが,江戸中期以後は男女の密会のために座敷を提供するのを業とする家の称となり,出合(であい)茶屋,陰間(かげま)茶屋の別称として用いられた。それが1872年(明治5)の娼妓(しようぎ)解放令後は,明治政府による公娼遊郭制度下の遊女屋の公式名称となった。すなわち,娼妓解放令はマリア・ルース号事件に対する外交的配慮の所産であったから,政府は公娼制を維持するために,遊女を娼妓,遊女屋を貸座敷と改称して再編をはかった。娼妓が営業するための場所(座敷)を貸すという意味である。しかし,娼妓の前借金による身体拘束契約の無効は容易に認められず,逆に娼妓が貸座敷に同居するように義務づけるなど,公娼制度の実質は変わらなかった。再編当初は,大阪では席貸と称するなど地域差を残していたが,1900年に内務省令によって全国的に統一の取締法を定めて制度を強化した。それ以前からも,私娼地帯を公娼化する例が多く,1897年ごろには全国の総数は1万軒をこすありさまであった。貸座敷は遊興費の40~50%を収入としたが,娼妓の購入物品(衣類,日用雑貨など)や遊客の飲食物代金などに多額の水増しを加算して暴利を得ていた。警視庁令にもとづき,警察の監督下におかれ,指定区域内に限って営業していたが,1946年の公娼廃止とともにその名は消滅した。
原島 陽一
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貸座敷(かしざしき)
日本大百科全書(ニッポニカ)「貸座敷」の解説
遊女屋の公称。1872年(明治5)の娼妓(しょうぎ)解放令以後、娼妓が営業するための座敷を貸すものとして遊女屋を貸座敷と改称した。実質は従前と変わっていない。貸座敷の営業は内務省の統轄のもとに、指定地以外での営業は許されず、その存廃は各府県がこれを定め、警察署が取締りにあたった。その規模により等級を分けられたが、いわゆる大店(おおみせ)では娼妓のほか、妓夫(ぎゆう)、遣手(やりて)らの使用人が十数人に及んだ。1946年(昭和21)公娼制廃止とともに消滅した。
[原島陽一]


朝日遊郭
朝日遊郭は、1895年(明治28年)6月9日に貸座敷業の許可をえて12店が開業した。 その後、日清・日露の戦役を経た1907年(明治40年)頃には、貸座敷45軒、娼妓530人にまで増加している。 朝日遊郭は、衛生および警備上の設備が充実しており、駆梅院、憲兵出張所、巡邏兵出張所などが併設されていた。 これは呉が重要な軍港であったことが関係すると思われる。 下表に1907年(明治40年)頃の貸座敷を示す。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kure_chin/photo/asahimachi/asahimachi001.html

呉市史編纂委員会編.呉の歴史:呉市制100周年記念版.呉,呉市,2002,p132
池田幸重.呉案内記.呉,田島商店,1907,p100-103