本日は『斜陽』(岩波文庫版)を読みました。
初出は『新潮』の1947年7月から同年10月まで4回にわたって連載され、12月に単行本化。
時代の世相を敏感に読み、題名も秀逸で太宰治の代表作となりました。
題材はよく知られているように、太宰の愛人の太田静子さんの日記がもとで、完全な創作ではありません。
一読して記憶に残る警句(アフォリズム)を散りばめた構成と、女性を主人公にした時の語りの文体は余人をもって代えがたく、現在まで続く太宰の人気の原因なのでしょう。
『斜陽』は何度目かの再読ですが、今回は没落して東京の邸宅を売り払い、伊豆の小さな山荘でままごとのような生活を送る母と娘と、見守る周辺の地元民の困惑が面白かったです。
<岩波文庫の内容紹介>
敗戦直後の没落貴族の家庭にあって,恋と革命に生きようとする娘かず子,「最後の貴婦人」の気品をたもつ母,破滅にむかって突き進む弟直治.滅びゆくものの哀しくも美しい姿を描いた『斜陽』は,昭和二十二年に発表されるや爆発的人気を呼び,“斜陽族”という言葉さえ生み出した.同時期の短篇『おさん』を併収. (解説 阿部 昭)
華族 (かぞく)
華族はもともと清華(せいが)(清華家)の別称だったが,1869年(明治2)の版籍奉還により,従来の公家と諸侯を合わせて華族と称し,士族の上位におかれて,天皇より四民の範となるよう諭された。71年の廃藩置県で華族は政治的特権を失った。また,海外へ洋行する者も多く,同年の岩倉使節団に同行した留学生には多数の華族が含まれていた。この使節団はヨーロッパの貴族制にも関心を払い,これは帰国後の岩倉具視や木戸孝允らの対華族策となった。74年創立の華族会館(当初は当時の全華族427家中の約4分の1が参加。1876年開館)は,華族組織化の第一歩であった。76年,華族は6部に分けられ,正副督部長および部長がおかれ,督部長に岩倉,副督部長に池田慶徳がなった。同年,華族は宮内省所管となり,〈華族類別録〉が編製され,78年完成,刊行された。これでは華族は皇別・神別・外別に分けられている。この間,75年設立の元老院には有功の華族を議官に任じ,また,華族教育のために学習院が77年に開校された。
すでに岩倉具視は,岩倉使節団の米欧回覧時,鉄道敷設に関する意見書を提出していたが,華族を中心に出資された日本鉄道会社が,政府保護下に1881年設立された。また,華族の金禄公債証書を資本とした第十五国立銀行も,77年につくられた。これは国立銀行条例によるものであるが,俗に華族銀行とよばれ,特別な保護を政府から受けていた。
1884年7月7日,華族令が出された。当初は10ヵ条だが逐次追加され,1907年に全面改正された(全28条)。華族令は華族を公・侯・伯・子・男の5等の爵位に分けた。公爵は五摂家と徳川旧将軍家のほか維新に勲功のあった公家や旧藩主など11家,侯爵は旧清華家と中山家および15万石以上を原則とし,維新に功のあった旧藩主と旧御三家および大久保・木戸家など24家,伯爵は5万石以上,旧三縁など,子爵は5万石未満の旧藩主と大臣家以下の公家と士族の功臣など,男爵は公家・諸侯の支族分家の特別な者,1868年に諸侯に列せられた者,大社・大寺の神官・僧侶ならびに特別な功臣の子孫などであった。84‐87年に華族となった者は,総数で566名,うち旧華族483名(旧華族の分家などを含む),新華族83名で,新華族は醍長出身者が過半を占めた。この華族の創出は,近代天皇制において,これらの華族を皇族の〈藩潅〉にするためであった。したがって,ヨーロッパの貴族が,王権に対して事実上相対的独自性をもっていたのに対し,日本の華族は,維新当初いったん特権を否定され,近代天皇制強化のためあらためて創出された存在だったのである。この華族は〈大日本帝国憲法〉(1889)で貴族院にくみこまれた(34条)。華族には政治的,社会的,経済的特権が与えられたが,そのおもなものは,礼遇,世襲財産,家範の制定などが認められ,また,30歳以上の公・侯爵は全員,伯・子・男爵は互選によって貴族院議員になることが認められていた。また,1910年の韓国併合にあたっては,華族令に準じた〈朝鮮貴族令〉が制定された。これらの華族は敗戦後の〈日本国憲法〉の施行(1947)で消滅した(14条2項)。ちなみに,28年の華族数は956家(公爵18,侯爵40,伯爵108,子爵379,男爵411。《現代華族譜要》による)とされ,戦後の消滅時は,913家が数えられている。⇒士族 田中 彰
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