Learn from yesterday, live for today,
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The important thing is not to stop questioning.
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アインシュタイン 1879‐1955(Albert Einstein)
理論物理学者。南ドイツのウルムに生まれたが,1年足らずでミュンヘンに移り,そこで幼・少年時代を過ごした。幼いころから父やおじの影響のもとで自然科学や代数,幾何に関心をもつようになった。ルイートポルト・ギムナジウムに入学したものの,型にはまった教育をきらい,権威主義への反感もあって,1895年に中退し,前年イタリアに移っていた家族を追った。その秋チューリヒのスイス連邦工科大学の入学試験に落ち,1年間アーラウのギムナジウムに通い,翌96年スイス連邦工科大学に入学,教員資格取得のため物理学と数学を学び,1900年卒業した。ドイツ市民権を失って(1896)以来無国籍であったが,01年スイスの市民権を得た。卒業後2年間は定職につけず,臨時教員や家庭教師などをして生計を立て,02年にベルンのスイス特許局の審査技師となった。そこに7年間勤めたが,しごとの合間に行った理論物理学の研究は,20世紀物理学の基礎を築くことになった。すでに1901年から熱力学および統計力学に関する論文を発表していたが,05年に光量子仮説,ブラウン運動の理論,特殊相対性理論という,根本的かつ革命的理論を立続けに提出したのである。そのため,この年は〈奇跡の年〉といわれる。同年分子の大きさの決定法に関する論文によりチューリヒ大学から学位を取得した。特殊相対性理論ははやくから評価され,08年にはベルン大学私講師,続いてチューリヒ大学員外教授(1909),プラハのドイツ系大学の教授(1911),スイス連邦工科大学教授(1912)となった。14年春には M. プランクや H. W. ネルンストのきもいりで,プロイセン科学アカデミー正会員,カイザー・ウィルヘルム研究所の物理学部長としてベルリンに招かれた。15年,一般相対性理論を完成,その理論からの帰結の一つである重力場による光線の屈曲現象が,第1次世界大戦後まもなく(1919),イギリスの日食観測隊によって確かめられたことによって,アインシュタインと相対性理論の名は世界的に爆発的に知られるようになった。数理物理学への功績,とくに光電効果の法則の発見に対して,21年度ノーベル物理学賞を受けた。22年11月には日本を訪れ,各地で熱狂的歓迎を受けた。また,その前後数年にわたり,世界各国を訪れ,講演を試み,見聞を広げ,同様の熱狂的歓迎を受けたが,他方で,彼の徹底した平和主義とシオニズムに対して示した共感とによって反ユダヤ主義反動勢力の攻撃の的となり始め,彼自身ばかりか相対性理論まで P. E. A. レーナルト,J. シュタルクといったドイツ科学提唱者たちのやり玉にあがるようになった。33年初め,ナチス政府樹立とともにユダヤ人学者としてドイツを追放され,同年秋アメリカのプリンストン高等研究所に迎えられた。40年,スイス市民権を保持したままアメリカの市民権を得た。45年研究所を退いたが,その後も研究室をもらって終生研究を続けた。この間,1939年には L. シラード,E. テラー,E. ウィグナーの要請により,核分裂が軍事的に利用される危険性があることを指摘し,それをナチスが開発する可能性のあることを警告する,シラードの起草になる手紙をアメリカ大統領ローズベルトに書き,これがアメリカの原子爆弾開発計画の発端となった。しかし,彼はこの計画になんら関与せず,その進展についてなにも知らなかった。第2次大戦後は,核兵器廃絶と世界連邦達成のためにたゆみない努力を続けた。とくに死の直前に B. A. W. ラッセルとともに発した核兵器廃絶と戦争廃止のための平和声明(ラッセル=アインシュタイン宣言)は,その後の科学者の平和運動の展開に大きな影響を及ぼし,パグウォッシュ会議の発端をつくった。
[アインシュタインと20世紀の物理学]
アインシュタインが研究を始めた20世紀初頭は,X線,放射線,電子といった微視的世界における驚異的な諸発見が相次ぎ,多くの物理学者の目はそれらの実験的研究に向けられていた。しかし,若きアインシュタインはそれらにではなく,物理学の理論的基礎にかかわる問題に注目した。19世紀の終りに,力学のほかに熱力学,電磁気学という理論体系をもつに至った物理学は,その基礎的なことはすべて見いだされてしまったと思われるようになったが,他方で,それまで物理理論の究極目標とされていた,すべての自然現象をそれを構成する要素(粒子であれ波動であれ)の力学によって説明しようとする,いわゆる力学的自然観が深刻な危機を迎えていた。気体が真空中を飛びかう分子群からなると仮定して気体の諸性質を説明する理論(気体分子運動論),光を弾性媒質(エーテル)の波動とみて光の伝搬の諸性質を説明する理論など,力学的自然観はみごとな成功をおさめていたが,他方で,熱力学第2法則を純粋に力学だけから説明することができないこと,また,気体比熱の説明の困難,光学を統一した電磁場理論の力学的基礎づけの失敗などが明らかになってきたのである。
アインシュタインは初め,力学にかわって全物理学を統一的に理解する鍵として熱力学と統計力学のもつ普遍性に注目し,それを追究した。ここで開発された統計力学的手法は,まず光量子仮説とブラウン運動の理論に適用され,その後,彼の量子論研究において一貫して強力な武器となった。液体中の浮遊粒子の不規則運動(ブラウン運動)を分子運動論から純理論的に導き,熱力学の成立限界を示すものとして提出されたのがブラウン運動の理論であった。それはまた,当時まだ仮説としてのみ存在していた原子・分子の実在性の実証へ導くものであった。学位論文はこの研究に密接に関係している。
他方でアインシュタインは,離散的原子の間の遠隔作用に基づく力学と近接作用に基づく電磁場理論の間の非両立性,不整合性,あるいは粒子と場(波動)の間の非両立性,不整合性に注目し,そこから生ずる諸問題を解決しようと試みた。その一つが特殊相対性理論であり,他の一つが光量子仮説であった。
光量子仮説は,すでに1900年プランクによって提出されたエネルギー量子の考えとは独立に出され,しかもプランクの理論に初めて物理的意味を与えるものであった。その後,固体の比熱の量子論(1906‐07),光の粒子・波動二重性の証明(1909),量子過程への遷移確率の考えの導入(1916)など,量子論の発展に重要な貢献をしたが,光量子仮説は,多くの経験によって支持されてきた光の波動論(電磁理論)を無視するきわめて大胆なものであったため,20年近く無視され反対された。24年放射を光量子気体として扱い,新しい統計的方法を提出した S. N. ボースの研究を高く評価したアインシュタインは,その方法を物質粒子の理想気体の場合に適用した。これはボース=アインシュタイン統計と呼ばれる。他方で光量子仮説は,1923年の L. V. ド・ブロイの物質波の考えを導き,それが E. シュレーディンガーの波動力学への道を用意した。完成した量子力学が,波動関数を確率的に解釈し,微視的な現象の因果的記述を放棄したのに対して,アインシュタインは微視的な現象も因果的であって確率論はわれわれの情報不足を補うためのものにすぎないと考え,量子力学を物理理論として完全なものとはみなせないと批判し続けた。これに関しての N. H.D. ボーアとの論争は有名で,それが量子力学の解釈に大きな影響を与えた。
相対性理論は従来の力学の枠組みを根本的に変革したものであった。すなわち慣性系における光速度不変と相対性原理に基づく特殊相対性理論によって,ニュートン力学における絶対空間,絶対時間,エーテルなどの概念は捨てられ,新たな四次元世界像が打ち立てられた。質量とエネルギーの同等性は,同じ年この理論から導かれた。さらに相対性原理を重力場に拡張する試みは1907年から始められ,15年一般相対性理論として完成した。20年代から電磁場と重力場とを統一する理論の形成に努力を重ねたが,未完成のまま終わった。
西尾 成子
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